翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

またまた地上勤務 (2)

 昭和五十六年(一九八一年)二月。
 二年と一〇日の海幕勤務を終わって配属された先は、第五一航空隊である。五一空は、海上自衛隊唯一の研究開発や試験、実験を任務とする航空隊で、下総基地にある。
 私の配置は研究指導隊安全指導班長である。安全指導班は、航空部隊の航空安全に関する部隊指導、航空事故調査の支援、安全誌の発行などが任務である。私は、飛行隊兼務の発令なので航空機に搭乗できる配置ではあるが、仕事が仕事だけに実質上はデスクジョッキーに近い。
 研究指導隊長は、私と飛行学生が一緒だった中山泰彦二佐である。
「頼むぞ。得意のアイデアをこらして、しっかりやってくれ」
「はあ、でも私は安全に関しては常識以上の持ち合わせがないシロウトなんですが」
 そりゃまずい、ということで遅れ馳せながら、本家本元で勉強してきなさい、と航空自衛隊の飛行安全幹部課程に入れてもらうことになった。班長で着任してから勉強にかかるのでは、まさに泥棒を見て縄をなうを地で行くことになるが、致し方もない。
 航空自衛隊の飛行安全幹部課程は、現在は立川の航空安全管理隊で行なわれているが、当時は浜松で行なわれていた。
 行ってみると、
「学生長をやってもらいたいのですが、いいですか」
 という話。普通学生長は最先任の学生がやる。私が最先任なら当たり前のこと、わざわざ念を押すこともないのに、と思ったら、
「実はうちの課程は本来二尉、三尉の課程で、一尉も少ないんです。三佐の学生は初めてで、それも四年物の三佐、学生長になってもらうのさえどうかと……」
 四年物などと沖縄の泡盛じゃあるまいし、古い古くないは関係ありません。いいでしょう、学生長、やりましょ。
 娯楽室の隅でふと見つけた古いアルバム、一五年も前の修業記念写真にわが同期生の顔がいくつかあった。一昔以上も昔である。なるほど、これだけ遅れて来れば、皆が呆れるのも無理はない。
 しかし、ここでの課程はずいぶんためになった。安全というものを体系づけて勉強できたし、空自、陸自のパイロット(だいぶ年下ばかりだが)とも知己になれた。また航空工学の内藤一郎先生、航空医学の黒田勲先生と、斯界の泰斗であるお二人の馨咳に接することができたのも、有り難かった。

 三カ月の課程を終わって下総に戻り、本格的に仕事にとりかかる。班員は、班長の私を入れて幹部三名、海曹一名、それがオールメンバーである。
 仕事のメインは、安全誌の編集、発行、毎年実施する飛行安全幹部講習の実施で、あとは飛び込みの仕事である。
 安全誌『安全月報』は数十ページながら、名が示すように月刊である。隊員から送られて来た原稿が主体であるが、スタッフで翻訳、執筆もする。座談会を企画、実施して記事にすることもある。
 飛行安全幹部講習は、各部隊で安全業務に当たる要員に対する講習で、安全に関する知識、技術を紹介する。空自の課程でできた人脈を頼りに、空自関係からもオーソリティを講師に招くほかに、自分でもなけなしホヤホヤの知識で、(それは隠して)講師の役もやるのである。
 この年秋、大作業が始まる。五一空の厚木への移転である。
 厚木の庁舎はまだ工事中のため、飛行場東側に大型のプレハブの建物を設置しての仮住まいになる。歩く度にそこらの机が揺れるプレハブ住まいもそう長いこと我慢の必要もなく、やがて新庁舎が完成、またまた移転。
『安全月報』の発行も順調、安全講習の方も評判はまあまあのうちに月日が移る。
 昭和五十八年(一九八三年) 一月、二佐に昇任。
 同年四月、寝耳に水の話が飛び込んだ。八戸の第二航空群司令部の幕僚という話である。