翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

P‐2J (1)

 昭和六十年(一九八五年)一月下旬、昼前に八戸を出発。
 雪の降りしきる東北自動車道を一気に駆け抜け、東京に入ったのが夜半。東名、名神と夜を徹して走り、夜明け前、大阪南埠頭に着く。付近でゆっくり時間をつぶして、夕刻、宮崎県日向行きのフェリーに乗り込む。一夜の船旅の後、再びハンドルを握って、国道一〇号線を一路南下する。
 信号で止まる度、脇を通る人がジロジロ私の車を見る。中には車中をのぞき込んで行くのもいる。スパイクタイヤがそんなに珍しいの、でもまあ、車は思い切りの泥ンこ、走ればバリバリ、止まればガガーッ、見たくもなるかなという気もする。
 東北道は福島辺りまでずっと雪の中、こちらに着いて見ればヒーターを切っても車内は汗ばむほどに暑い。本州北端と九州南端の差は、かくの如しである。
 鹿屋は昭和四十七年(一九七二年)の二〇五教空以来一三年ぶり、一空は昭和四十三年(一九六八年)以来だから、一七年ぶりである。
 当時のP2Vはとつくに姿を消して、現在はP‐2Jの部隊である。それも当然、すでに六空を皮切りにP‐3の部隊配備が進みつつある時期である。
 ともかく、長期間ご無沙汰していたVPの航空隊にやっと戻って来た。

 副長。英語での呼称はエグゼクテイブ・オフイサー(EXECUTIVE OFFICER)である。米海軍では略してX・0 と呼ばれるが、ブランデーなら最上級でも、副長の場合は、考えられるような副指揮官(VICE COMMANDER) ではなくて、日課、隊員の生活など部隊の監理全般を統括するのが役目。部隊の行動、訓練は、主として司令―飛行隊長のラインで行なわれる。
「副長は部隊の規律風紀の要である」という人もいる。私は考える。「要」であるから、必ずしも「鑑」じゃなくてもいいだろう、もしそうならとても務まりそうにない。副長とて定員上は搭乗員の数に入っている。ということは、飛行機に乗れるのである。P‐2Jの機長としての勤務もあるのである。
 早速に再練成訓練が始まる。
 P‐2Jは、P2Vから派生した機体で、ターボプロップ化されたほか、機内の装備もP2Vよりかなり進んでいる。
 外見上は、胴体の長さが一メートル強長くなった、エンジンの換装でプロペラが四翔から三翔になった、エンジンナセルの形状が変わり主車輪もダブルタイヤになった、レーダーがコンパクト化されてレーダードームがかなり小振りになった、などの変化がある。
 操舵の感覚はまったく違う。なにやら腕相撲でもしている気になる重く堅い手応えのP2Vに比べて、こちらはぐっと柔らかい。操縦桿の根元がゴムでできているんじゃないかと思えるほどである。それに着陸のときのあの機首の重さがどこかへ行ってしまって、操作は極めてらくである。
 エンジンの力感は、それほど違わない。このエンジン、部隊配備開始当初はちょいちょいトラブルが出て、豪雨の中や寒冷時の雲中飛行では、ずいぶん搭乗員の肝を冷やしたのである。
 私がまだここ鹿屋でYSに乗っていた時分、こんなことがあった。
 大隅半島の南で訓練をしていた私は、「基地の天候が急に悪化したので帰投せよ」、という命令を受けて急速帰途についた。内之浦方面から志布志湾に入り、すぐにGCAの誘導を要求、そのまま進入した。鹿屋に近づくにつれ雲が厚くなり、進入限界高度に達しても滑走路は見えない。やり直しである。
 指示に従っていったん高度をとる。無線を聞いていると、それにつれて上空の飛行機に順次高度を上げるよう指示を出している。飛行中だった航空機はみな呼び返され進入の順番を待っているものとわかった。
 三度目は、ぎりぎりで滑走路が見えて無事着陸。まだ滑走路を出ないうちに、無線機から悲痛な声が響いた。
「ボスエンジン・フェイリヤー(両エンジン故障)、ボスエンジン・フェイリヤー!」
 P‐2Jである。P2V同様補助のジェットエンジンを持っているとはいえ、ジェットエンジンだけでは高度を保つのは無理である。とすれば、いつかは地上に着いてしまう。つまり落ちてしまう。
 どうなる?
 他人のことながら気が気ではない。滑走路を出て周波数を切り替えたので、無線の交話からその後の様子を知ることはできなかったが、後で聞いたところでは、両ジェットで飛行しつつ、なんとか再起動に成功したということで、間もなく降りてきた。
 両エンジンが同時に故障とは、怖い飛行機だなと、YSのパイロツト同士話した記憶があるが、その後いろいろ手が加えられて、この時分には信頼性の点ではまったく問題なくなっている。
 それどころか……。
 P‐2Jは、昭和四十四年(一九六九年)引き渡しの初号機に始まって合計七八機が生産され、平成六年(一九九四年)、鹿屋の第七航空隊で最後のP‐2Jがその任を終えて退役するまで、二十数年間にわたって海自の主力哨戒機として活躍した。
 特筆すべきは、その間事故による喪失が一機もなかったということで、これはその用途、製造機数、就役期間などからして世界に例のない大記録である(ギネスブックに登録するとかしないとかの話も聞いたが、その後どうなったかについては聞きもらした)。
 初期に幾つかの不具合が発生したとはいえ、それだけ完成度の高い安全な飛行機であったと言える。その運用・整備に当たった海自航空部隊の練度もまた、非常に高かったと言うことができよう。