翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

P‐2J (2)

 副長の仕事は決して多くはない。しかし、やろうと思えばいくらでもある。飛行作業にかかわることを除いて、日課の円滑な進捗、各所の整備、隊員の士気高揚、規律の振粛、福利の向上などいろいろ工夫して担当者を動かすのも、なかなかに骨の折れる仕事である。
 どこにも書いてないが、各種の体育競技会をどう戦うかも、副長の腕の見せ所である。
 体育競技で勝つには、三つの要件がある。
 まずベストのメンバーを選ぶ。ほんとはあいつの方が良いんだが、あれにはあの仕事をやらせているから、などと言うのを見過ごしていては、勝てない。本務はもちろん大事だが、万事やるなら徹底してやることである。戦力は絶対に眠らせておかない。
 次にそのメンバーに十分な練習を積ませる。指導者の選定もそうだが、練習に打ち込める環境づくりも重要である。仕事をカバーする態勢もそう、ユニフォームの準備、栄養剤の差し入れなど物の支援もそう、期待されているという意気込みとプレッシャーが良い結果を生む。
 最後は応援態勢である。サッカーは最もホームゲームの勝率が高いゲームだそうだが、それはサポーターと呼ばれるファンの熱烈な応援が作用している。実力伯仲なら絶対に応援が熱心な方が勝つ。だから、競技会当日は、応援者の動員と応援ムードの盛り上げにあの手この手を尽くす。成功すれば、少しくらい格が上の相手からでも勝利をもぎ取れる。それにこの応援による一体感は、本来の業務にも良い効果をもたらす。
 私の笛が上手だったか、踊り手がうまかったか、この時期のわが一空は、サッカー、ハンドボール、ラグビー、水泳など、運動会を除くすべての競技で優勝をさらった。ここ何年かまったく勝算のなかった種目も含めてである。

 昭和六十年(一九八五年)十月二十三日、終生忘れられない痛恨の一大事が発生した。
 一空ではP‐2Jのほかに、連絡機としてB‐65双発機を一機保有していた。そのB‐65が墜落、乗員三名が殉職したのである。
 そのとき、私は隊司令の杉山靖樹一佐(幹候一五期、防大八期)と一緒に、昼食を終わって食堂を出たところであった。飛行当直士官が息を切らせて走って来た。
「B‐65の位置報告がないので通信捜索をしていたんですが、さっき、警察から司令部の方に、串間の海岸近くで飛行機が墜落したという通報が……」
 皆まで聞かず、我々は駆け出す。
 通報は事実であった。そして航空機はまぎれもなくわが隊のB‐65。
 基本操縦訓練を実施中、何らかの原因で高度が低下、宮崎県串間市の築島という小さな島に本土から架け渡した送電線に接触、海上に墜落したものであった。目撃した付近の人たちがすぐさま舟を出して、二名のパイロットと同乗整備員の計三名全員を収容したものの、すでに死亡していたという。遺体は物言わぬ姿で基地に戻って来た。
 通夜の執行、葬儀の準備のかたわら、各部への報告、通報、機体の揚収作業、事故調査の支援など、忙しい作業が次から次へとのしかかってくる。それでも基地を挙げての支援を受けて、しめやかなうちにも盛大に部隊葬をとり行なうことができた。
 何より救われたのは、殉職した三人の隊員の遺族がみな、悲しみのうちにも冷静な対応を示されたことであった。
 機長夫人はまだ幼い長男を抱え二人目の子供を妊娠中という状態で、愛する夫を突然失つた悲しみもさることながら、大黒柱に先立たれた心細さもひととおりではなかったはずである。
 さらに偶然にも、三人が三人ともご両親にとってはかけがえのない跡取り息子、それを不慮の事故で失った心痛と失意も想像にあまりある。それでいて取り乱すこともなく、かえって我々がねぎらわれる始末、頭が下がる思いであつた。

 つい最近、この事故で殉職したコパイロットの妹さんが結婚された。当時の群司令の伊藤達二元自衛艦隊司令官、司令だった現呉地方総監杉山靖樹海将、飛行隊長だった現海幕援護業務課長小西矩吉一佐の他、一、二の元一空隊員と一緒に浜松のホテルで行なわれた披露宴に出席してきた。
 実は、あの後父上が病死されるという不幸があり、このお嬢さんには早く幸福な結婚を、と関係の隊員みな等しく願っていたところだったので、美しい花嫁さんに一同目をうるませて喜んだことであった。
 他のご遺族共々の健康で幸せな日々を願って止まない。