翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

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 再び厚木の六一空に舞墜戻った。一空を出てからちょうど二年が経っている。
 あの痛ましい航空事故の翌々年の昭和六十二年(一九八七年)四月、私は一空から海上幕僚監部勤務となった。そして二年の海幕勤務を終えて、古巣とも言うべきここ厚木の六一空の副長として部隊に出たというわけである。
 海幕では、「昭和六十三年度甲演習プロジェクト・チーム」の一員として勤務した。
「甲演習」とは、海上自衛隊が五年ごとに実施する全海自規模の大演習である。陸・空自衛隊、米海軍・海兵隊も多数参加する。プロジェクト・チームは、その演習のプロデューサーであり、世話役であり、雑用係でもある。
 昭和六十二年いっぱいは事前研究作業に追い回される毎日。明けて昭和六十三年(一九八八年)に入ると、秋に行なわれる実動演習の企画、調整そして準備作業に東奔西走させられ、実動演習期間中は演習統裁部に所属しての演習の統制補佐である。演習終了後の記録整理もプロジェクト・チームの役目、これが数力月続く。
 そして、昭和六十四年(一九八九年)、昭和天皇の崩御で年号が改まり、ようやく作業も終わった平成元年三月下旬、六一空副長の発令を受けたのだった。
 四八歳という年齢のせいか、ワープロに向かう毎日がそうさせたか、気がつくとすっかり遠視が進んで、書類仕事には眼鏡が欠かせない有り様になっていた。
 副長としての勤務もYSによる輸送業務も初めてではないので、とくに馴染むのに時間はいらない。搭乗員もほとんどは知った顔、一〇日と経たないうちに、すっかり部隊に溶け込むことができた。

 六一空というのは、なかなかにつらい部隊である。
 ともかく部隊運営にほとんど主体性が持てない。定期便、臨時便、広報飛行など、ほとんどすべての飛行作業が既定の方針、あるいは依頼元部隊などの事情と思惑に左右されざるを得ない。したがって、部隊としての訓練、行事などは、数ヵ月前からもろもろのやり繰りをしなければ、時間と人の都合がつかないのである。
 さらに航空安全に対する気のつかいようがひととおりでない。なぜと言って、多数の人員を運ぶ輸送便、万一事故になれば死傷者も多数出ると考えなければならない。もちろん少数の死傷とても重大な事態であることに変わりはないが、数の問題もさることながら、一般の市民・高校生の場合、VIPの場合など、影響の大きさには格段に差が出ると考えなければならない。
 その上に、限られた範囲の飛行場しか使用することのない一般の部隊の航空機と異なり、不特定多数の飛行場への要務があり、小笠原便のように離島への運航もある。
 そういうこともあって、パイロットはベテラン揃いである。当時のパイロットの総飛行時間の平均が約八五〇〇時間、副長の私よりも一〇〇時間以上も多い。
 ということは、平均年齢も高いということで、基地内の各種体育競技も、隊員の年齢構成上の不利があり、その上に泊まりがけの定期便の運航に伴ってまとまっての練習ができないという勤務態様上の不利がある。さらにまずいことに、たった数機を運用する小さな部隊である。隊員の数も多くない。したがってこれらの競技には、まず勝てない。
 こういった競技で勝つことは士気高場の手段の一つとして、至極効果的なのであるが、これがまずもって期待できない。期待する方が無理というものである。体育競技で好成績を収めるについては、一空での実績で私もちょっと自信をつけたのだったが、ここでは笛を吹いても、誰も踊らない。いや踊り手そのものがいない。
 そんなつらい部隊でも妙にみな、元気に、楽しそうに勤務している。誰でもできるというわけにいかない重要かつ困難な任務に従事しているという、誇りと使命観のなせるわざであろうか。