翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

P‐3C (3)

 機種転換のための講習が終了し、しばらく待機する。次の配置の発令待ちである。次の配置がP‐3部隊の司令であるのはまず間違いがないので、司令の交代時機が近いと思われる部隊を数え上げては、自分の勤務経験、部隊の実情、副長との組み合わせなどいろんなファクターを照合しては、あの部隊か、この部隊かと憶測している。
 部隊側でも、次は誰かというのは最大の関心事だから、こういった時期には噂も乱れ飛ぶ。
 そのうちに、私が鹿屋の七空司令になるらしい、という噂が現地の方から聞こえて来た。いかにもまことしやかなので、ついついそうかも知れないなどと思いはじめた矢先、当の七空司令から電話がかかってきた。西岡文秀一佐である。彼は乙種航空学生出身幹部最後のビッグワンで、あちこちでいろいろとお世話になった大先輩でもある。
「おまえが来るという噂がしきりに聞こえてくるんだが、不思議なことにおれがどこかに行くという話が一向にないんだ。これをどう思う」
 おや、そんな、わけがわからなくなってくる。噂とはそんなものである。こういう噂は出所を突きとめるのは、極めて困難である。流れはじめたとたんに根も葉もない細部が追加されたりして、火元の本人にさえ、自分が流したものとは認識できないほど変容を遂げることもまれではない。
 フタが開いた。
 平成三年(一九九一年)二月十六日付、第四航空隊司令。鹿屋に劣らず懐かしい八戸の、それも候補生時代に一時勤務したことのある四空である。

 二空群司令部の幕僚勤務を終わって八戸を出てから六年、その間にこの八戸の基地にもいくつかの点で大きな変化が起きている。
 一つは、ソ連の崩壊による冷戦の終結で、北の海の軍事的な緊張度が大幅にレベルダウンしたことである。六年前は、周辺を飛行するソ連機も多く、周辺海域ではソ連海軍の艦艇を見かけることも珍しくなかった。特にオホーツク海の飛行では、海上保安庁を通じて通報してあるはずの流氷観測(後に触れる)にさえ、ソ連のスクランブル機が確認に舞い上がって来たものである。大韓航空機がサハリンの海馬島付近上空でソ連機に撃墜されたのも、この時期のことである。

 それが六年経ったこの頃では、かの国の艦艇・航空機の活動は目立って低調になり、その姿を見かける機会もずっと少なくなっている。
 もう一つは、八戸基地所在の二空・四空ともに、装備機がP‐2JからP‐3Cに変わったことである。P‐2Jに比べて、速度が速く航続距離も長いP‐3では、訓練にしても周辺海域の天候が悪ければ良い海域まで進出して実施できるし、船舶の通航状況、漁船の操業状況などの調査も、より広い海域をカバーできる。
 この二つの変化によって、航空隊の任務遂行はおおいに楽になっている。とは言っても北国の基地の自然環境は相変わらずで、部隊の運用はそれなりの厳しさの中にある。
 着任後三カ月余過ぎた七月、一等海佐に昇任。