翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

またまたまた地上勤務 (2)

 時間的にみて、もう生きている可能性は少ない。これは大変だ、すぐに司令部に駆け戻る。
 司令官、群司令も夕食会を切り上げて登庁される。報道陣が駆け付けて来る。
 タンク内の航空ガソリンをすべて抜き取り、底にたまったビルジをホースで吸い出す作業中に爆発が起きたもので、作業員三名が死亡、隊員一名が重傷を負う大事故であった。
 運よく脱出できた二名の作業員は、全身に火傷を負っていたものの自力で救急車に乗り込んだくらいで、まさか死亡するほどの重傷とは見えなかったという。後で聞いた話であるが、このような爆発では、熱風を吸い込んだ肺に水腫ができ死に至る例が多いという。病院に移送されて間もなく、彼ら三人が死亡したとの連絡が入り暗然となる。
 重傷を負った隊員は、燃料を担当する資材二班の幹部で、業者の作業状況を確認に行って難に遭ったものであるが、幸いに爆発に背を向けていたことと、脱出後すぐに着衣と靴を脱ぎ捨てて、近くにいた部下の隊員に手伝わせて、ホースで水を浴びたことが、生存につながった。
 我々はこの沈着と剛毅に感じ入ったものであるが、彼の特質はその後の闘病生活でも発揮されることになる。予断を許さぬ状況が年が明けるまで続き、どうやら助かりそうだと見通しがついたのは、もう松がとれる頃であつた。何度にも分けて行なう全身の皮膚移植、ずいぶん痛いというが、それに彼は耐え抜き、リハビリに励んで、夏の終わりごろにはほぼ従前の健康体をとり戻した。この間の彼の忍耐と克己は、医師をはじめ病院の皆が驚嘆するほどのものであったという。
 幸いにこの事故が、自衛隊に対する非難につながることがなかったのは不幸中の幸いであった。これには以下のことが良い方に作用したと考えられる。
 ☆部外の業者に発注した作業による事故であったこと。
  (事故の直接責任を問われることがなかった)
 ☆半地下覆土式のタンクであったために、被害がいっさい周囲に及ばなかったこと。
  (施設の安全性を認識させる結果にもなった)
 ☆報道陣への対応がスムーズにいったこと。
  (公平に、可能な範囲で極力取材に応じた)
 ☆事故についての全ての情報を一枚のメモにまとめ、いち早く上級司令部、周辺の地方公共団体、関係官署に報告通報したこと。
  (情報を一本化し事実のみを伝えた)

 自衛隊の一佐の場合、五五歳の誕生日をもって定年である。平成六年(一九九四年)を迎えた時点で、私にはあと一年しか残っていない。近々一年延長という話もある(実際に延長された)が、そうだとしてもあと二年、おそらく次の配置で定年を迎えることになる。
 陽射しが夏を感じさせるようになったある日、群司令の玉井秀幸一佐(幹候一四期、防大七期)に呼ばれた。
「二〇一教空司令にという話だが、いいか」
 いいかとは、定年前で再就職の準備もあるだろう、自宅のある首都圏を離れることになるがそれでいいか、という群司令の気遣いである。
 いいどころではない、定年前に航空隊司令、それも後輩パイロットの教育に携わることができる。パイロット冥利に尽きる話である。もちろん二つ返事。