新国軍における統帥に関する一考察(2)

M. G 生
まえがき
本論は、改正した新憲法下天皇を形式的最高指揮官とし、実質的には内閣総理大臣が指揮権を行使する「新国軍における統帥」について考察したものであり、現憲法下における自衛隊の現状とは関係ない。

1 日本とはどんな国なのか
(1)日本の国柄と国体
(2)なぜ天皇が我が国の元首でなければならないのか
(3)主要国が統帥権を国家元首に委ねている理由
2 統帥権とは
(1)統帥権と最高指揮権
(2)国家元首と統帥権
(3)主要国が統帥権を国家元首に委ねている理由
3 まとめ
あとがき



イ 天皇と日本国民
 我国の国体について論ずるには、まず天皇と有史以来天皇を敬愛してきた日本人について述べなければならない。わが肇国は皇祖天照大神が神勅を皇孫ニニギノ尊に授けて豊葦原の瑞穂の国に降臨せしめた時にある。その天照大神から数えて6代目に当たる神武天皇が、紀元前660年、新暦の2月11日即位し始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称して以来、万世一系の天皇が我が国に存在され、今上陛下で125代となられる。このように神々に家系がつながる歴代天皇は絶えず神様の意向に沿うように政治を心掛けてきて来られた。これのところを昭和12年文部省発行の「国体の本義」は次のように述べている。「高御座に即き給う天皇が、万世一系の皇統より出でさせたもうことは、肇国の大本であり、神勅に明示し給うことである。即ち天照大神の御子孫が代々この御位に即き給うことは永久に渝ることのない大義である。個人の集団を持って国家とする外国においては、君主は智、徳、力を標準にして、徳あるは其の位につき、徳無きは其の位を去り、あるいは権力によって支配者の位置に上り、権力を失ってその位を逐はれ、あるいは主権者たる民衆の意のままに、その選挙によって決定される等、専ら人の仕業、人の力のみによってこれを定めるのは,蓋しやむを得ないところであろう。しかもこの徳や力の如きは相対的なものであるから、勢い権勢や利害に動かされて争闘を生じ、自ら革命の国柄をなすに至る。然るに我が国に於いては、皇位は万世一系の皇統に出でさせられる御方によって継承せられ、絶対に動くことはない。されば、かかる皇位にまします天皇は、自然にゆかしき御徳を備えさせられ,従って御位はますます鞏く又神聖にましますのである。臣民が天皇に仕え奉るのは、所謂義務ではなく、また力に服することでもなく、止み難き自然の心の表れであり、至尊に対し奉る自らなる渇仰随順である。われら国民は、この皇統の弥弥栄えます所以と、その外国に類例を見ない尊厳とを、深く感銘し奉るのである」
 神話が日本人の心の中に生き続け、何時の時代にも人々が、神々に祈りをささげ、現代にいたるまで、全国津々浦々の神社でお祭りをして、神話を生活の一部としてきたことは確かな事実である。
 以下これの例示をしてみる。
 まず、天皇に対する日本人の尊敬、親しみを考えるうえで、その原点である、天照大神の存在が大きな意味を持つ。天照大神は日本神話の中で最も賢い神とされているが、西洋の神話の最高神がすべて男性であり、自分の地位を獲得するのに骨肉の争いをしたのに比し、天照大神は女性であり、父親のイザナギの尊から神々の女王になるように命ぜられ、誰からの抵抗も反対も受けず、平和裏に最高位の位についている。しかも天照大神の性質は実にやさしく、弟のスサノオの尊が相当の乱暴をしてもそれをかばい、それでも目に余るときでも、殺したり、罰したりせず、自分自身が天の岩戸に隠れて諌めようとする寛容さ、柔和さを持っておられる。また葦原の水穂の国を治める適任者を決める時も、独断をせず、八百万の神々を集めて会議を行い、それに従って意志決定をしている。このような天照大神の寛容さは日本人の精神に大きな影響を与えてきた。
 この素晴らしい日本の神話を戦後の教育は日本の歴史から切り離し、軽薄に取り扱ってきた。それ故、万世一系とか天皇、皇室に対する尊敬の念が年々減少しているように思える。神話と歴史についての今一度、しっかりと認識しておく必要がある。大半の古代史学者は「それ楽浪海中に倭人あり,分かれて百余国となる.歳時を持って来たり、献見すという」漢書二八下「地理志」の中の一節の記述をもって我が列島の客観的歴史の始まりとし、それ以前は考古学的時代として封印してしまっている。
 これをうけて、ほとんどの歴史書は倭国の誕生からその記述を始めている。しかし、我が国は、漢書が述べている倭の時代の数千年、ひょっとすると数万年以前から、我が祖先は生存していた。それが歴史ではないとどうして言えるのであろうか。どこの国も考古学的記述が終わって、自国史の開始を告げるのは王権の成立をもってする。何故外国文献中の蔑称「倭国」「倭人」をもって自国史の始まりとしなければならないのか理解に苦しむところである。
 我が国の場合、王権の始まりが、「古事記」や「日本書紀」の「神代記」につながっており、戦後これを否定したために、致命的錯誤を犯してしまっている。何故神話を「非歴史」とし、外国の片言を「歴史」と信じるのであろうか。日本神話は日本人がまだ文字を持たない時代に形成され、口承され、長期にわたり伝承されてきた。しかし神話は荒唐無稽で、歴史以前に属し、他方中国の文字による証言だけは唯一の合理的歴史事実であるとするのは、どうしても納得できない。つまるところすべての歴史は広い意味での神話である。ことに古代においては歴史と神話の間に明確な境界は建てられない。天皇の祖先の起源が神話にあることは、決して作り話などと軽々に取り扱うべきものではあってはならない。戦前までの日本人はこの原則をしっかりと継承してきた。早々に皇国史観の裏返しで、誇りを失った自虐史観を一掃し、正しい歴史観を取り戻さなければならない。
 聖徳太子も仏教の経典を深く研究して、仏教普及に尽力されたが、その一方で神道興隆の詔を出されている。したがって仏教徒たちからも伊勢神宮は尊信され、参拝も盛んに行われた。この伊勢参拝は戦国期に盛んになったが、特に江戸時代には「お蔭参り」として爆発的流行となった。当時の人口の1割強の人々が仕事を急におっぽり出して、着の身着のまま家族にも告げずに伊勢に向かう。沿道は彼らに施業してくれることも多く、帰ってきても「お蔭参り」といえば、叱られないという気分であった。また幕府も藩もこれを大目に見て規制を加えることはしなかった。庶民のほとんどの家には「天照大神」の掛け軸がかかっていたという。
 このような熱狂的な伊勢参拝は最近では見かけられないが、しかし今なお伊勢参りは盛んであるし、一昨年の伊勢神宮「式年遷宮」には多くの国民が参拝し、其の後も伊勢神宮参拝者は後を絶たない。このように、神道が脈々と日本人に心の中に宿っているのは、建国の当初から一貫として存続してきた皇室の存在がある。
 世界の君主の中で、自ら祭祀を執り行われるのは、日本の天皇陛下とバチカンのローマ法王だけである。天皇は歴代、我が国の神々を祭ってこられた祭祀者である。祭祀者も又神であるとする信仰は独特のものではなく、古代ローマや古代ヨーロッパ全体にもあった。また日本においても、出雲大社や諏訪大社の世襲の宮司は「現人神」と呼ばれていた。
 天皇の祭祀は肇国以来天皇の最優先行事と位置付けられており、明治期から終戦までは、皇室祭祀令に基づき実施された。戦後は一旦これが廃止されたが、宮内庁は内部通牒を出し旧皇室令に準じて実施されている。これについての予算が、皇室の内廷費から処理されていることから、戦後の宮中祭祀を「天皇が私的に執り行う儀式」とする不遜な憲法学者も多い。宮内庁の公式HPでは宮中祭祀を「宮中の御公務など」の項で説明している。
 何事につけ苦難の多かった占領初期に侍従長を務めた大金益次郎は昭和35年に政府の憲法調査会で、「かようなことがはたして個人の信仰なり、私的な行事ということができるかどうか。日本国憲法により、象徴とされているが、象徴たる天皇の行事であると思っています。またかくの如き行事があればこそ、天皇が象徴であるということに本当の意義が生まれてくると思います」と述べている。憲法学者の不遜な意見もあるが、内閣総理大臣をはじめ、三権の長が、大祭を中心に一部の祭祀に陪席しているとも報道されており、もしそうであるなら一種の安堵観を覚える。産経新聞の憲法要綱では、第1章天皇の第7条で「天皇は伝統に基づく祭祀を行う」と明確にしている。宮中で行われる新嘗祭は民間で行われた新嘗が母体である。哲学者和辻哲郎は天皇を「国民全体性の表現者」と言っている。 このように皇室と民間との祭祀には密接不離な関係がある。天皇は国民を代表して日本及び日本人の安全と繁栄のため、神々と会話し祈念されるのである。これができるのは天皇以外にはおられない。即ち天皇は神であって、神でなく、人間であって、人間でない存在であると言えよう。皇室は第125代まで続いており、ほぼ2千年にわたって一つの国が連綿と続いてきたという国は世界において日本以外にはない。中国では王朝は30回以上も交替している。
 このように皇室が2千年の長きにわたって、何ゆえに続いているのか。それはまず何よりも、歴代の天皇が国民に対して善政・仁政を行ってきたこと、天皇が人々の信仰の対象であったこと、さらに「皇室と父祖への忠誠」が根底になっていると考えられる。先祖則臣下が皇室を神代の昔からお守りしてきたのだから、我々の子孫もお守りしなければならないという思いである。万葉の歌人大伴家持は「天皇の祖先神の昔から、我が一族は邪悪なものを一掃してお仕えしてきた。また神武天皇より代々隠しへだてなく赤心を天皇に向けて窮め尽くしてお仕えしてきた。そして天皇が代々官をお授けになった祖先の名を絶やすな」と謳っている。楠正成が建武の中興第一の功労者として朝廷に推薦したのが、九州肥後の菊池武時であるが、この菊池家は安徳天皇のために戦死し、蒙古襲来時には兵を率いて勇戦し、承久の変のときは後鳥羽上皇のために奮戦し、建武の中興が挫折しても代々天皇方について働いている。その後この一族は山奥に隠遁の生活を強いられるが、その間武芸の鍛錬、学問の修養を怠らず、皇室への忠誠心は代々伝えられ、明治維新の気運が高まるや、天皇の内勅を受けて、すぐに京都にはせ参じた。八百年にわたって、皇室にたいして、忠節を貫いた菊池家に対し、男爵の爵位が与えられた。このような話は五条頼元とその子孫等他にも数多くある。
 いずれの国においても、王朝を倒す可能性のある勢力とは、政治的実権や武力を背景にしているが、我が国ではそのような権勢家が皇室を倒して自ら皇位に着こうとしたものはほぼ皆無である。日本史上あえて弑逆を行ったものを上げるなら、眉輪王と蘇我馬子であろう。承久の変で三上皇を拝流したほどの実力を持った北条氏であえ、将軍になることなく幕府の執権に留まった。足利尊氏も後醍醐天皇のおられた吉野を攻撃することはしなかったし、天皇の崩御後は天龍寺を建立し菩提を弔っている。源頼朝も天皇には全く恭順している。
 平氏の重盛も天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩所謂四恩の中で国王の恩、即ち天皇の恩が最も重いと言っている。其の後、武家の時代となったが、そのルーツを天皇に求めることが多かった。乱世の世代になっても御所に対して弓を引くようなものは現れなかった。織田信長は天皇の政治的求心力の大きさにあらためて驚嘆したといわれる。
 豊臣秀吉も関白太政大臣になって、天皇に恭順をあらわし、源氏の後裔を自任した徳川家康は天皇から「征夷大将軍」に任じられることにより幕府の権威を高めたが、江戸時代全般を通じて、天皇の政治的重要性は軽くなかった。先に述べたように、一般大衆の伊勢信仰に代表されるように、幕府が日光東照宮を建立しても、それが信仰として定着することはなかった。このように日本人は武家から一般大衆に至るまで、天皇に対して相当な関心、親近感、あるいは信仰に近い感情を抱いて、明治維新をむかえたことがうかがえる。
 明治維新が起こっても、日東東照宮が破壊されたり、徳川慶喜が民衆の怨恨により、殺されることはなかった。慶喜は公爵となり、勲一等旭日大綬章を授与されている。混乱はあったが、榎本武揚は子爵になり、勝海舟は海軍卿として伯爵、西郷隆盛も賊名が解消された。そして明治元年には近代日本の国是たる「五箇条の御誓文」が発布された。これと同時に国民に対して布告された明治天皇の御宸翰には、「国民が一人でも自らの志を達成できないときは、それは皆私の罪であるから、私は粉骨砕身して国難の艱難の先頭に立ち、歴代天皇の尽力された事績を踏み行うという政治を行ってこそ、はじめて天皇という天職を奉じて日本国民の君主たることに背かないであろう」と述べておられる。五箇条の御誓文について、イギリスの雑誌「評論の評論」(1912)は「五箇条の御誓文を拝する時、ああ1868年の時点において、ここに漲る如き感情は、ヨーロッパのいかなる帝王の口からも発せられることはなかった。思うに、世界中の帝王、政治家は等しく明治天皇に学び、そこからインスピレーションを得て、治国のためにもって指針とすべきである」と絶賛している。これの方針に基づき、自由民権運動が盛んになった。その過程で板垣退助あたりが、急激な運動を展開したが、彼は「世に尊王家多しといえども我が自由党の如き尊王家は有らざるべし。世に忠臣すかなからずといえども我が党の如き忠臣は有らざるべし」、と尊王を謳い上げ、その他福沢諭吉、大隈重信もこぞって尊王論を展開した。そして明治22年帝国憲法が発布された。当時キリスト伝来の為日本にいたロシア人ニコライは「万国の歴史を調べても、いまだかって、貴国の如き至福至幸の国はありません。この度の憲法制定のことについても、欧米諸国では、其の制定発布の際には幾多の人血をながして、見るに堪えない悲しみを残しています。ところがこの国にあってはどうでしょう。国民がこぞって、泰平無事を享受し天皇陛下は憲法を定めて民衆にお授けになり、民衆も慎んでいただくという例は古今東西に見いだせない」と感嘆している。
 徳富蘇峰が「されど日本は世界に比類なき国体を持っている。それは言うまでもなく、万世一系の皇室を、元首として戴くことだ。皇室は大和民族の中心であり、本根であり、枢軸である。平たく言えば、大和民族の本家本元である」と述べているように、古来、日本は天皇が国民を守り、国民が天皇をしたい、敬愛し、守り、天皇を中心として、天皇と国民が渾然一体となって日本の伝統と文化を守り、発展してきた。今後ともこれを維持していかなければならない。しかしながら戦後の教育はこれを否定することに主眼を置く日教組や革新勢力に押し切られ、すこしは改善されてはいるが安心はできない。先日も、愛知県一宮市のある校長が、建国記念の日に当たり、仁徳天皇の民のかまどについて、「この話は神話であり、作り話という説もあります。しかし、こうした神話こそが、その国柄を示しているともいえるのです。こうした天皇と国民の関係は何も仁徳天皇に限ったことではありません」とし、さらに昭和天皇がマッカサ―元帥の元に赴いて会見されたことに触れ、「このように、初代、神武天皇以来、2675年にわたり、我が国は日本型の民主主義が穏やかに定着した世界で類を見ない国家です」と述べ、最後に「私たちは日本や日本人のことを決して卑下する必要はありません。皆さんは、世界一長い歴史と素晴らしい伝統を持つこの国に誇りを持ち、世界や世界の人々に貢献できるよう、一生懸命勉強に励んでください」と結ぶ講話を朝礼で実施し、それを校長のブログに乗せた。これに対し、早速偏向しているとのクレームが市の教育委員会にあり、一宮日教組は抗議文を用意したようである。驚いた教育委員会は断定的で個人の考えを押し付けているとし、校長に口頭で注意し、ブログから削除させたという。我が国を貶めようとする歴史戦はまだまだ厳しいものがある。
(続く)