第四話 盧溝橋事件の犯人論争等

山下 輝男


 大東亜戦争の発端とされる盧溝橋事件とは、1937(S12)年7月7日(七夕)の夜、北京(北平)西南方の盧溝橋で、演習を終えた日本軍に対し、突如として数発又は十数発の銃弾が撃ち込まれたことを発端として、日本軍支那駐屯軍と中国国民革命軍第29軍との武力衝突事件である。
 夜間演習(事前に中国に通知済み)中に射撃を受けた部隊を撤収して、盧溝橋から約2Kmの位置に集結した。
 事件発生の翌日の8日、陸軍中央と外務省は直ちに不拡大・現地解決の方針を決めた。現地停戦協定が、11日成立した。然しながら、停戦協定にも拘らず、中国軍の挑発が続き、隠忍自重していた日本軍だが、28日未明天津軍は、中国29軍に対し全面攻撃を開始した。『三週間の不拡大方針も空し』と評す史者も居る。


   この盧溝橋における第一発の犯人が未だに確定されていない。日本軍謀略説、中国軍謀略(軍閥や特務機関、中共軍)説、偶発説(中国蒋介石軍の恐怖心や誤認)の三説がある。日本の研究者の間では偶発説が有力?

参考
『中国の肯定史観は、当然「日本軍謀略説」である。盧溝橋の東側正面に日本軍が最初に占領した宛平城という城があり、その中には中国人民抗日戦争記念館が設けられている。日本軍の中国侵略と中国人民の戦いの歴史を伝える生々しい資料や立体映像を展示し、盧溝橋事件を再現した巨大なジオラマもある。』


 先ず、日本軍謀略説については、その根拠として中国側が提示する資料(「金振中回想」)があるが、それは歴史偽造・捏造の類といえる。盧溝橋事件の第一発論については、国民政府も中華人民共和国も似たような主張をしている。然し、その根拠と目される新聞記事が甚だ疑わしいものである。日本軍謀略説の虚構は崩れたといえる。日本軍は事件を予期していなかったのは事実である。日本軍の戦闘詳報からもそれは明らかだ。

 中国側の発砲が、中国革命政府軍からであるのは間違いのないところだが、それは現地中国軍の意思だったのか、それとも日中の衝突拡大を策した者の意図だったのかは検討する必要がある。或いは、第一発は偶発だったとしても、その後の事変の拡大にはある種の謀略があるとも感ぜられる。色々な挑発策動が語られている。劉少奇の指令で動いた一団の男女学生の策動説、冀察保安隊説もある。
 何れにしても日中両軍の離間衝突を望む勢力が存在して策動していたのは事実だが、中国共産党に責を帰せられるのか確定していないが、葛西純一氏翻訳の新資料や桂鎭雄氏の論文等で中共謀略説が強まっている。勿論、反論も示されている。
 驚く程の説が示されている。現場にいた中国軍の大隊長は射撃の指示があったと最近証言している。
 中国正規軍の第一発を奇貨として、日中の離間を図り事変の拡大を図った連中に乗せられて日本は泥沼にのめり込んでいったと云えるようだ。

(第四話 了)