第七話 杉原千畝だけではないユダヤ人への人道的対応

山下 輝男


 リトアニア副領事であった杉原千畝氏が、1940(S15)年7~9月に掛けてユダヤ系難民にビザを発給し、人道的行為として賞讃されている。そのことに異論を唱える積りは毛頭ないが、余り知られざる日本の善行がある。日本は、実は人権先進国であったとも云える。

1 ユダヤ難民2万人の受入・保護
(満州国ハルピン特務機関樋口季一郎少将と関東軍参謀長東条英機中将の英断)
 杉原氏のビザ発給の2年前、昭和13年(1938年)3月、ソ連の強制入植地から脱出したユダヤ人2万人が、満州国と国境を接したソ連のオトプールで、吹雪のため立ち往生していた。
 このユダヤ人の状況を見兼ねたハルピンのユダヤ人協会会長カウフマン博士が、ハルピン特務機関長樋口季一郎陸軍少将のもとを訪れ、同胞の窮状を訴えた。
 樋口少将は、関東軍参謀長であった東条英機中将の許可を得て、ユダヤ難民全員を受け入れた。難民の8割は、関東軍が準備した満鉄の支援列車により大連、上海を経由して米国へ、残余の4000人は開拓農民としてハルピン奥地に入植することとなった。樋口少将は、開拓農民のために土地と住居を斡旋するなど面倒を見たという。
 勿論、ユダヤ難民を受け入れるかどうかは満州国外務部の権限だろうし、ある意味では越権行為であったのかも知れぬ。
 それはさて措くとして、2万人の救出に東条英機中将が関わっていることは意外に知られていないようで、残念だ。東条大将の英断も素晴らしい。
 後日談がある。案の定、ナチス政府から強硬な抗議が来た。が、樋口少将は、人道主義の名のもと、抗議を一蹴した。勿論、東条中将も樋口の主張に完全に同意し、ドイツの抗議は終息した。
 参考までに、エルサレムの丘の上にある「黄金の碑」(ゴールデン・ブック)には、モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人と並んで、4番目に「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」とあり、その次に同少将の部下であった安江仙弘大佐の名前が刻まれているという。


2 猶太(ユダヤ)人対策要綱:安江仙弘陸軍大佐の提言
 ドイツとの連携は重要なるが、対米関係の悪化をも避けたいとの思惑を絡めて、公正に取り扱い特別に排斥しないとの大方針を打ち出している。本要綱は、日米開戦の翌年に廃止された。


3 上海租界地での対応 1938(S13)年秋  大塚惟重海軍大佐
 上海に流入したユダヤ人に対して、入国ビザなしに上陸できたのは世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口(ホンキュー)地区だけだった。海軍大佐の犬塚惟重は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。


4 パリ講和会議における「人種差別撤廃提案」(1919(T8)年1月
 第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、大日本帝国は、人種差別の撤廃を明記するべきという「人種差別撤廃」の提案を行った。然しながら、英米の反対にあい、特にウィルソン大統領の裁定で成立することはなかった。こんなところにも将来の日米抗争が潜んでいるのだろう。

(第七話 了)