第十話 義勇兵という名の参戦

山下 輝男


 朝鮮戦争(1950(S25)年6月~1953(S28)年7月)で中国は、彭徳懐を司令官とする部隊を「中国人民志願軍(義勇軍)」との名称で派遣した。
 実は日米開戦(1941(S16)年12月8日)以前に、米国も援蒋ルートの制空権確保を目的として、名目上は合衆国義勇軍(AVG)を編成して部隊を展開させているのである。

 これは明らかな国際法違反である。1907年ハーグ陸戦条約[第5条約(中立に関する条約)の中の「中立国は交戦国に対して援助してはならない(避止義務)」に違反している。当事者ではない第三国は、交戦国双方に対して中立であるべきというのが国際法の基本原則である。また、米国独自制定の中立法にも当然違反しており、ルーズベルトの独断による決定であると云われている。

 1937(S12)年7月の盧溝橋事件の和平調停が不調(何れが違反したかは明らかだが・・)となり戦火は拡大し、国民党政府は重慶に首都を移して抵抗を続けた。この重慶政府に対する英米等の支援ルートが所謂援蒋ルートである。この援将ルート遮断のために、後年日本軍は、北部及び南部仏印に進駐することとなるが、今はその話は擱く。
 国民党政府はソ連製の航空機により日本軍の攻撃に対していたが、当然のことながら形勢が不利になり、重慶にも日本軍の攻撃が予期されるに至った。
 米陸軍航空隊大尉であったシェンノートは、蒋介石夫人宋美齢の呼び掛けに応じ、中国空軍の教官・顧問として迎えられた。彼は、「日本軍航空隊に対し、中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中華民国空軍はこの脅威を退けることができる。」と具申した。これはシェンノートと呼ばれる。 
 この具申が米国との協議のうえ、承認され、米国は中立維持の必要もあって、中国援助オフィスを経由する形で支援することとされた。
 日米開戦の半年前に編成され、アメリカ合衆国義勇軍(AVG)と名付けられ、最終的にパイロット70名、地上勤務員104名となった。
 民間人として中国に渡航、現地で正式に中華民国軍に入隊という形をとった。

 AVGが使用したP-40Cは99機(爾後新型が30機追加)である。中国名「飛虎」、世界からは「フライングタイガース」で知られる。シャーク・ティース(鮫の歯)をイメージしたP-40の独特のマーキングが有名だ。


 実際に戦闘に参加したのは日米開戦後であった。
 12月20日、護衛なしで飛来した日本の軽爆に対し、要撃作戦を発動、日本軍機は退避した。
 12月23日のラングーン空襲では、日本軍の損害は 8機、AVG側は、7機であった。その後死闘を繰り返した。最終的には飛行不能となった22機に火を放って昆明に撤退した。
 日米開戦に伴い、AVG存在の意義が薄れ、1942(S17)年7月解散することとなった。残存戦力は、米空軍で編成された中国空軍機動部隊に編入され、米空軍に復帰した者や現地に残った者も居る。

(第十話 了)