第十一話 米世論を劇的に変えた宋美齢

山下 輝男


 日本はどうも宣伝戦に弱い。大東亜戦争の初期においては、国際メディアは比較的冷静であったが、第二次上海事変(1937(S12)年8月13日~10月26日、蒋介石軍が上海の日本租界を攻撃したことに端を発する軍事衝突)以降徐々に変化し、次第に厳しくなってきたと云われる。
 その契機となったのが、日本海軍航空部隊による渡洋爆撃であった。国際連盟総会において、日本軍の都市爆撃に対する非難決議が全会一致で採択されるに至った。
 第二次上海事変における外国メディアに対する中国の宣伝戦は、巧みで非常に効果的であった。悲惨な写真を多用し、誇張・捏造も散見された。
 その一つとして蒋介石夫妻の行動が挙げられる。
 日本軍国主義に戦う民主主義のシンボルとしての蒋介石と共に蒋介石夫人の宋美齢の果たした役割も非常に大きいと云われる。
 歴史を動かした宗家の三姉妹と評される彼女等は、中国の名士チャーリー宋の娘として生まれた。長女の宋靄齢は大財閥の当主孔祥熙と、次女の宋慶齢は中国革命の父孫文と、三女の宋美齢は後の中華民国総統蒋介石と結婚し、「一人は金と、一人は権力と、一人は国家と結婚した。」と言われた。彼女たちは辛亥革命・満州事変・西安事件・日中戦争・国共内戦と続いていく激動の中国近現代史を動かす存在となっていくのである。


 蒋介石夫人となった宋美齢の活躍には瞠目すべきものがある。
 南京からの対米放送(NBC、CBS)は全米にラジオ中継され、流暢な英語により爆撃による犠牲、日本批判を展開した。発言は翌朝の「ニューヨークタイムズ」にも再録されたため、その影響は大であった。支那事変における対米宣伝のヒットは宋美齢とまで評された。この放送の日から急激に対日感情が悪化したという。

 堅忍不抜の総統と、目の覚めるほど魅力的な、アメリカで教育を受けた、恐れを知らない彼の妻がその象徴と言う像を通じての中国に対するイメージを一新し、それが定着していった。
 彼女は、西安事件でも、命の危険を犯して西安に飛び、張学良と交渉し、内戦の停止に合意し、その翌日蒋介石は解放された。
 宋美齢は国民党航空委員会秘書長に就任し、AVG(第十話参照)設立をも主導した。「中国空軍の母」と呼ばれた。
 そして、米国世論を中国寄りに転換させた功績は大である。蒋介石の抗日、反共と台湾保持はいずれも米国の支援を必要としたが、これは宋美齢の存在そのものが米国の支持を取り付ける最大の眼目となっていた。彼女が外交上突出したパフォーマンスを演じたのは1943年である。黒地に金のサテンのチャイナドレスをまとい、胸には宝石をちりばめた中国空軍のバッジを着けた宋美齢は米下院で演説し、ハリウッドの屋外会場で演説した。また、ニューヨークのカーネギーホールをはじめボストン、シカゴ、ロスアンゼルス、サンフランシスコの各都市を遊説し、中国大陸に目を向けて欲しいと訴えた。これらの演説は、全てラジオで全国放送された。また彼女は滞米中ル大統領はじめ閣僚とも何回も会談し意見を交わした。
 更には、中米英3ヵ国によるカイロ会談では蒋介石の通訳として八面六臂の活躍をした。米中関係の密接化に繋がった。驚嘆すべき活躍ぶりで、日本は彼女に敗れた。

(第十一話 了)