第十三話 白紙還元の御諚:剛腕東条総理でも限界

山下 輝男


 1940(S15)年暮れから民間レベルで始まった日米交渉は、翌年5月から政府間交渉に移行し、開戦直前まで続いた。日米諒解案がまとめられたが不調に終わり、8月1日対日石油禁輸が実行された。交渉の陣容を一新した近衛首相は、ルーズベルトとの首脳会談を提案したが、独ソ戦への側面支援のため日本軍の北進を押さえる必要もあり、首脳会談に応ずることは得策でないと判断していたと思われる。近衛は9月6日の御前会議以降、米国への妥協策として中国からの撤兵を模索し始めた。だが、東条陸相の強硬な反対にあい、退陣してしまった。
 このような状況下で、後継内閣組閣の大命が東条陸相に降下した。これは、東条にとって、予期せぬことであった。そして、大命と共に、木戸内府を通じて、「9月6日の御前会議決定にとらわれることなく、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加えることを要す。」との御諚(お言葉)が伝えられた。これが「白紙還元の御諚」である。
 9月6日の御前会議決定とは、『①自存自衛を全うするため、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す ②米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む ③外交交渉により10月上旬頃に至るも尚要求を貫徹し得る目途なき場合は、直ちに対米(英蘭)回線を決意す』 というものである。本御前会議で、天皇は、明治天皇の御製「よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」を読み上げられた。
 東条内閣は、10月18日に発足した。天皇の避戦の真意、開戦方針の白紙還元を受けた対米穏健派の東郷を外相に据え、自ら陸相、内相を兼務して、開戦決定の見直しに着手したが、結局は失敗した。
 東条の首班奏薦理由は、“陸軍を掌握している、対米即時開戦論者ではない、天皇のお言葉あればより一層慎重な態度、確信なければ開戦しないと言っている、勅命に従って方針を変更する筈、陸軍が対米関係改善に努力すれば米国の疑惑も解消する”etcであったようだ。
 責任感の強い東条は、和と決した場合の国内混乱対処を考慮したためである。東条は連日政府・統帥部連絡会議を開いて大方針の再検討を行った。最終的に支那撤兵問題で紛糾し、陸海軍の統帥部の強硬な態度は変わらなかった。東条は議論を臥薪嘗胆、主戦、和戦両様の三案を列挙して連絡会議で議論した。
 臥薪嘗胆案は否定され、主戦の参謀本部に対する東郷外相となったが、東条が東郷を支持し第三案となった。交渉案として東郷外相が提示したのが甲案と乙案である。米側の希望を取り入れた(支那における通商無差別、支那及び仏印よりの撤兵)最終譲歩案である甲案と、甲案不成立の場合に南部仏印進駐以前の状態に戻り、米国にも譲歩を求めるという暫定協定案が乙案であった。
 11月2日早暁にまで及んだ連絡会議は、甲・乙両案と「帝国国策遂行要領」を決定して散会した。陛下の御諚通り白紙還元されたのである。
 陸海軍統帥部は、最悪の事態に備えて戦争準備を促進するが全員一致で承認され、11月5日の御前会議で、「帝国国策遂行要領」と甲・乙案が最終的に決定された。
 一方、この日本としてのぎりぎりの譲歩案も、参戦を焦る米国に一顧だにされず、遂には日米開戦への歯車が回り始めたのである。
 陸海軍統帥部の強硬な意見がありながらも、日本はぎりぎりまで努力したと云えるのではなかろうか?それでも足りないと非難できようか?日本のみ、東条首相のみを責めるというのは酷というものだ。

(第十三話 了)