第十四話 ソ連の対日領土的野心

山下 輝男


 不凍港を求めて南下政策を推進してきたロシアは、日露戦争によりその野望を挫かれたが、その野望は潰えることなく、ソ連にも引き継がれ、虎視眈々と機会を狙っていた。1945(S20)年2月、クリミヤ半島のヤルタで、米ルーズベルト、英チャーチル、ソ連スターリン三ヶ国首脳会談が開かれ、ルーズベルトは、ソ連による千島列島と南樺太の領有を認める条件として、ソ連の日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。これが「ヤルタ密約」である。



 ドイツが降伏し、スターリンの関心は極東に移った。スターリンは対日侵攻準備を督促したが、準備は進捗していなかった。
 8月6日、広島への原爆投下で日本の降伏をスターリンは恐れた。8月8日午後モロトフ外相と面会した佐藤駐ソ大使は、宣戦布告を告げられた。大使は日本に緊急電を打とうとするもソ連の妨害により遅れたとも云われる。スターリンは、8月11日に予定していた作戦開始を9日に変更した。
 8月9日未明、兵員158万人、戦車6000両を擁するソ連極東軍は満州に怒涛の侵攻を開始した。その10時間後には長崎に原爆が投下された。これらを経て、8月14日日本はポッダム宣言を受諾、これを受けて米は停戦命令を発令した。トルーマンは、15日、スターリンに対し、ソ連が日本軍の降伏を受理する地域を想定した「一般命令1号」を送付した。そこでは、ソ連軍の占領地域は満州と朝鮮半島北半分となっており、ヤルタ密約に言う千島は含まれていなかった。
 これに不満なスターリンは、翌16日に、①千島列島全域を含めること ②北海道の北半分をも含めること(釧路から留萌を結ぶ以北 両市を含む)を要求した。トルーマンは、「日本の本土は全て米国の占領下に置く、北海道北部の占領は認めない。」と要求を拒否した。感謝すべきだろう。関東軍はソ連軍と停戦交渉に入るも、ソ連は8月20日までは停戦しないと回答したが、マ元帥の強い意向に従い、8月18日に一切の武力行使が停止されることになった。然るに、その後も、ソ連軍は対日侵攻作戦を継続し、満州、北朝鮮、南樺太、千島列島を占領した。米国の抗議を無視しつつ、遂には、日本固有の領土であった歯舞・色丹・国後・択促の4島をも占領したのである。
 千島列島最北端に占守島(しゅむしゅとう)があり、8月18日ソ連軍が同島に攻撃を開始してきた。戦闘行為は禁じられていたが、自衛のために已むなしと判断して反撃した。予想外の抵抗にあい、ソ連の事後の侵攻作戦は変更を余儀なくされたという。状況によってはソ連の占領地域が更に拡大していた可能性すらある。
 9月3日までに満州・樺太・千島列島・北方4島全域を制圧した。9月2日の講和会議以降も作戦を継続していた。
 ソ連は、最終目標であった(?) 北海道こそ占領できなかったが、・・
 9月2日、スターリンは戦勝演説を行い、「1904年のロシアの敗北は、国民の心に辛い思い出を残した。我が国民は、日本が打ち破られて汚名を雪ぐ日が来ることを信じてきた。我々は、この日が来るのを40年間待っていた。遂にその日が来た。今日、日本は降伏文書に署名した。」と述べたとされる。ソ連軍の侵攻は、日ソ中立条約に明らかに違反するものである。破棄通告はあったものの有効期限内であった。まして、連合軍が停戦した後にまで軍事作戦を継続しており、決して許されざる行動だ。スターリンの執念、ソ連・ロシアの野望や恐るべし。日露戦争の怨念まで持ち出されたのでは驚きだ。日本人が淡泊すぎるのか?

(第十四話 了)