第十九話 大艦巨砲主義からの転換が出来なかった日本

山下 輝男


 列国の海軍では、第一次世界大戦時に出現した弩級戦艦・超弩級戦艦を含む艦隊の有効性が認識され、大艦巨砲主義が強まったが、それは日本も同じであった。 日露戦争時の日本海海戦での大勝利は、大艦巨砲の有効性を再確認させ、艦隊決戦が、伝統的な海軍の作戦思想となった。海軍の主力は戦艦であり、航空母艦等は脇役という位置付けだったと云える。
 ワシントン海軍軍縮条約(1921~22年)、ロンドン海軍軍縮条約(1930年)が締結され、建艦競争には歯止めがかかった。が、その失効後には建艦競争が再燃した。日本は、米海軍の戦艦を研究し、太平洋に周回するためにパナマ運河を通行する必要があり、その制約上主砲は40㎝砲が最大と見積もり、それに対抗しる主砲46㎝の大和型戦艦を計画し、一番艦大和、二番艦武蔵を就航させた。
 勿論、日本海軍も航空母艦を建造していなかった訳ではない。WIKIによれば、日米開戦前には、6隻(鳳翔、赤城、加賀、龍驤、蒼龍、飛龍)を有しており、戦時中にも22隻を完成させている。
 因みに、1941(S16)年4月新編された第一航空艦隊は、世界初の空母機動部隊として運用された。その後に編成された航空艦隊は、海上航空部隊ではなく、陸上基地航空部隊で編成された。不沈空母を創設した日本海軍の慧眼に感服する。
 さて、このような態勢で日米戦に突入したのであるが、開戦劈頭の真珠湾攻撃、その直後のマレー沖海戦でも航空機が大活躍し、新たな時代の幕開けを予感させた。真珠湾では、空母から発進した約350機の艦載機が米太平洋艦隊の大半を葬り、マレー沖では、海軍基地航空隊の攻撃機が英東洋艦隊の新鋭艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」を撃沈した。航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した世界初の海戦である。
 この奇蹟的な大戦果が世界の海軍に与えた影響は極めて大きい。これを機に、航空主兵論が台頭してきた。
 然しながら、帝国海軍軍令部も連合艦隊も艦隊決戦から航空主兵に転換できなかった。大和型三番艦の「信濃」の建造も進められた。空母や航空機を増産することもなかった。勿論、無い袖は振れなかったのだろうが・・
 その後の日本海軍の海戦は、寂しいものだ。珊瑚海海戦(1942/5/7~5/8)では待ち伏せ攻撃に合い空母対空母戦で、空母1隻を失い、日本は爾後の進攻作戦を中止した。ミッドウェー海戦(1942/6/5~6/7)では、空母4隻を失い、南太平洋海戦(1942/10/26)、第三次ソロモン海戦(1942/11/12~11/14)、マリアナ沖海戦(1944/6/19~6/20)、そしてレイテ沖海戦(1944/10/24~10/25)で参加艦艇ほぼ全滅とじり貧状態となった。
 米国は、日本軍の真珠湾攻撃から空母機動部隊を回避させ、日米戦の末期には、末期には正規空母・軽空母18隻で空母群5つを展開していた。日米の航空機の生産量の差は、1944(S19)年時点で、日本の2.8万機に対し、米国は10.1万機であるとされ、この差が戦局に影響した。ある資料では生産力の差は5:1である。
 日本の行った海上作戦においては、航空機が主役を印象付けながらも、列国が転換を図ったのに対して日本は、旧来の考え方を放擲できなかった。惜しまれる。永年にわたって培われた思想を転換することは難しい。現代においても自戒すべきことだろう。有能でそれなりの地位にある航空重視論者が存在していたにも拘らずに。時代を転換させるのは生易しいものではないが、チャレンジ精神は失うべきではなかろう。
 

(第十九話 了)