第二十四話 南部仏印進駐が米国の覚悟を決めさせた?

山下 輝男


 日本軍は、日米開戦前に、フランス領インドシナ(仏領印度支那、仏印)に二回進駐した。1940(S15)年9月の北部仏印進駐と,1941(S16)年7月の南部仏印進駐である。日本陸軍が南進策に転じたのである。この仏印進駐が日米関係に如何なる関係を齎したのか?



1 北部仏印進駐
 北部仏印進駐は、欧州において仏が独に降伏(6月)した情勢を受けて、日本は仏印総督と交渉して松岡アンリ協定(8/30)を締結し、この協定に基づき仏印進駐(9/23)を行ったのである。謂わば「協定進駐」である。援蒋ルート遮断と自給自足経済体制の確立が目的である。協定や軍事細目協定を結んだ暫定的且つ抑制的な進駐であったが、米国は日仏協定の不承認を発し、10月16日全等級の屑鉄・屑鋼の対日禁輸を発表した。(蛇足ながら、日本の北部仏印進駐以前に英米ソも他国(アイスランド等)に進駐している事実がある。)
 この進駐に際しても、日本軍の早とちり進駐があり、参謀本部内の認識の相違や越権的行為等があったのは残念だ。

2 南部仏印進駐
 日独伊三国同盟(1940/9)は米国の警戒感を招き、日本への経済制裁が強化された。日本は資源の供給先を求めて蘭印政府との交渉(日蘭会商)を行うも決裂した。為に、南部仏印の資源獲得や蘭印に対する圧力のために南部仏印進駐が検討され始めた。
 日本は、北部仏印進駐に対しては米・英の反発が少なかったこともあり、南部仏印進駐も然程の反発を招かないだろうと判断していたと思われる。
 独ソ開戦(6/22)を踏まえて、7月2日、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定され、南部仏印進駐が決定した。この要綱には、対英米戦を辞せずとの文言が盛り込まれた。南部仏印進駐を強く主張したのは永野軍令部総長(海軍の変節?)であったという。松岡外相は、南部仏印進駐は対米英戦を惹起するとして強く反対した。
 7月21日、フランス側が日本の求めた軍の進駐等を概ね受諾したが、米国は強くけん制した。28日、計画通り南部仏印に上陸、仏印全土を日本軍の制圧下に置いた。
 米国は、8月1日、石油の対日禁輸の制裁措置を発表した。
茲に至るまで、米国は事前に警告を発していた。米国務長官代理が進駐中止を求め、野村駐米大使に“日本の征服政策の実証と認めざるを得ない”と強く牽制、ルーズベルトは野村大使に石油禁輸を仄めかしていた。
 米国は、英領マレー、ビルマ及び米領フィリピンまでもが日本軍の直接の脅威に晒されると判断した。即ち、日本軍の南部仏印進駐は、マレー、蘭印に進出するための跳躍台になると判断した。南部仏印の軍事基地は攻防何れにも解釈できるのである。“英米にとって、恰も喉元に刃を突き付けられるような衝撃”だったと記す史者も居る。
 日本側には、日本軍が仏印に留まる限り、米国も全面禁輸は採らないだろうとの判断があったようだ。米国も仏印・タイ迄なら許容すると読み違えた。日本が進駐しなければ、亡命中のドゴール政権が英米に仏印の管理(占領)を依頼する恐れもあると判断したので、先手を打ったとの側面もあったようだ。
 この南部仏印進駐が日米関係の決定的な決裂を齎し、日米戦争への回帰不能点とも評されている。日本の見通しも甘いと云える。参謀本部戦争指導班が記すように致命的な誤算だったのだ。

(第二十四話 了)