第二十五話 様々な対支那和平工作!

山下 輝男


 盧溝橋事件によって対支交戦状態に入った日本であるが、速やかに戦闘を終結すべく様々な和平工作を行われた。また、蒋介石自身の直接の指示に基づくものもあった。これらは、1945(S20)年終戦まで続けられたが、何れも挫折し、実現には至らなかった。日本は“それ行けどんどん”と無謀な戦いに邁進していったかのような誤解があるが、支那大陸の戦いから抜け出したかったのであるが、様々な要因があってそれらは実らなかった。残念だ。


①船津和平交渉(工作)
元元外交官、実業家の船津振一郎を通して蒋介石政府に和平を働きかけた。北支権益の放棄など日本が大幅に譲歩した案だったが、大山大尉事件(1937年8月9日上海海軍特別陸戦対中隊長等が殺害)が起きて頓挫


②トラウトマン工作
 第二次上海事変も起き、事変の長期化が予測され、第三国の好意的斡旋による和平を求め、先ず、英国が手を挙げたが、蒋介石により拒否された。次いで、新任の中華ドイツ大使による和平交渉が行われた。中国側に有利な条件であったにも拘らず、対日不信感の強い蒋介石が回答を保留している間に、日本が上海、南京を攻略した。日本で強硬論が強まり条件を厳しくした。蒋介石も断固拒否し、参謀本部の交渉継続主張はあったが、政府は打ち切りを決定し、1938(S13)年1月16日、悪名高い「国民政府を対手にせず」の第一次近衛声明を発出し、交渉は終わり、戦火は拡大した。


③汪精衛(汪兆銘)を通じての和平構想
第一次近衛声明後、水面下で日支和平派が接触し、過渡的策として汪精衛を相手に和平工作を進め、軌道に乗った時点で正式な路線に乗せようと諮った。国民党副総裁等の要職にある汪精衛は、抗日戦争を利用して中国共産党が勢力を伸ばすことを憂慮していた。が、時既に国民政府部内で主戦論が強くなり、和を談ずる者は「漢奸」と断ぜられ風潮が強まっていた。汪は、遂に重慶を離れることになり、蒋介石に書簡を送り、「今後、兄はその易(やす)きを為せ、而して弟はその難(かた)きを為さん」と結んだという。南京の汪精衛(汪兆銘)政権の目論見も功を奏せず、1939(S14)5月に日本占領下の上海に脱出した。


④その他にも様々な和平を模索する動きがあった。
・孔祥熙を通じての日本側への和平打診
・スチュワート・王克敏のラインを通じての重慶側からの和平提議
・満鉄の西義顕と浙江財閥の銭永銘とのルート
・米国による日本と重慶政権との仲介提案は、米により拒絶
・日華基本条約の締結 南京政府との交渉妥結
・南京政府の枢軸諸国の承認
・「桐工作」今井武夫陸軍大佐が、1939年12月以来蒋介石夫人宋美齢の弟・宋子良との接触し、和平について議論を始めた。昭和天皇への上奏も為された。然し、満州国承認問題や第一次近衛声明撤回や日本軍の駐兵問題を暗礁に乗り上げ中断した。


 相手が呑めない和平条件を提示したのか?和平を望まない勢力の妨害があったのか?和平相手の選定が誤ったのか?抑々、双方共に和平を望んでいなかったのか?正規ルートに乗せられなかったのか?果断なる決断を為し得ない政治システムや風土があったのか?抑々国益の衝突においては一方が譲歩する以外に妥協は成立しえないのか?色々と考えさせられる。

(第二十五話 了)