第二十七話話 シベリア抑留 捕虜か抑留者か?

山下 輝男


 大東亜戦争末期1945(S20)年8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を破棄して宣戦布告、満ソ国境に展開していた174万人のソ連極東軍が侵攻してきた。ボッダム宣言を受諾した日本は、16日即時停戦命令を発出、19日には関東軍とソ連極東軍との間で停戦交渉を行った。
 スターリンは日本人捕虜を用いないとの方針を翻し、8月23日、日本軍捕虜50万人のソ連内捕虜収容所への移送、強制労働の命令を下した。抑留された捕虜総数は65万人説が有力である。但し実態は今なお不明である。長期にわたるシベリア抑留では劣悪な環境と奴隷的強制労働により約6万人の死亡者が出たとも。1割近い、慄然とする。

 以下①~③は、「舞鶴引き揚げ記念館」のサイトから引用する。
https://m-hikiage-museum.jp/education/siberia.html

①飢え:抑留中の食料事情
 抑留者には十分な食料が与えられず、スプーンなどの食器も自分たちで作らなければなりませんでした。わずかな黒パンやスープを仲間と分け合いましたが、日に日に痩せ細り、栄養失調に陥りました。こうした日常的な飢えと寒さにより、1年目の冬を越せずに亡くなる抑留者も多くいました。


②重労働:抑留中の生活
 抑留者は氷点下を下回る環境の中、森林の伐採や炭鉱の採掘、鉄道の建設といった重労働に強制的に従事させられました。食料事情や衛生状況も劣悪で、身体中にノミやシラミが湧き、赤痢やコレラといった伝染病が発症し、5万5000人を超える多くの犠牲者が出ました。ただし、重労働ではない役務を課した収容所もあり、ソ連国民との交流が芽生えた例もありました。


③極寒:シベリアでの服装
 ほとんどの抑留者は、夏季に強制連行されたため、冬服を持っていませんでした。ソ連軍が日本軍の倉庫から冬服を持ち出し、それを抑留者に配布することもありました。また、ソ連側で用意した囚人服を抑留者に配布することもありました。こうした冬の装備は命をつなぐ大切なものでした。関東軍のコートは袖を取り外すことができたため、袖と黒パンなどの食料と交換する抑留者もいました。
             以上

 明白なボッダム宣言違反であることは明らかであり、“非人間的な行為であった”とエリツィン大統領は謝罪している。唯、彼等は合法的な捕虜であり、戦争終結後に不法に留めた抑留者ではないと強弁している。今なおロシアが「北方領土は戦争の結果として占領したものであり、不法ではない。」と強弁する根拠はここにある。
 日本の認識では、8月15日正午以後に降伏した軍人、軍属は俘虜とみなさない旨の通達がありそのような認識であった。が、ソ連は、完全に戦闘が停止したのは9月3日だから、国際法にいう戦時俘虜だと主張しているのである。この認識の差が北方領土問題の解決を難しくしている。
 何れにしろ、抑留者数未確定、死者数もその墓も不確かであり、遺骨収容事業も遅々とし、現地慰霊碑の維持管理や慰霊祭の斎行にも問題がある。
 シベリア抑留者の取り扱いもさることながら、抑留間に死亡した軍人、軍属等の御遺骨の収容でも問題が明らかになっている。確かに、日本側の不手際もあるが、日本人死没者の墓も不明確で、日本人か否かも明確でない状況だ。
 何れにしろ、ロシアの論理を明白に否定し納得させない限り、北方領土問題も厳しい。

(第二十七話 了)