第三十四話 欧州戦局に翻弄される我が国策

山下 輝男


 支那での作戦に専念したい日本ではあったが、英米との連携を模索する蒋介石の策動もあり、日米関係は逐次に険悪化し、対ソ関係も考慮する必要があるなど、欧州の情勢と我が国の国策が次第に密接にリンクするようになった。
 最悪の選択であったと称される日独伊三国同盟の締結と南進論に欧州情勢が如何に関わったかを見てみたい。
 天敵同志とも云われるドイツとソ連が、不可侵条約を締結(1939(S14)年8月)し、東方の安全を確保したドイツは、1939(S14)年8月ポーランドに侵攻し、英仏は宣戦布告し、第二次世界大戦の火蓋が切って落とされた。
 1940(S15)年6月にはパリが陥落し、英本土上陸を窺う情勢であった。ドイツの快進撃は、日本の国策に重大な影響を与えた。
 一度は消えた日独伊三国同盟締結構想が復活し、1940(S15)年9月に締結された。動機、目的は何だったのか?朝野の議論はどうだったのか?
 近衛首相や松岡外相は、日米関係を改善して支那事変を解決するために、米国牽制のために同盟締結を推進した。一般的には、親英米外交から枢軸外交への転換を求めるマスメディアや国内政党各派の世論に迎合したとされているが、そういう側面もありながら、公には日米関係改善意図をもあったと推察される。陸軍は対ソ牽制という意味で日独伊の連携強化には積極的であった。一方三国同盟には絶対反対であった海軍(吉田海相から及川海相へ)も松岡外相の説得に軟化して原則同意するに至った。



 翌年6月、欧州情勢はまた激変する。ヒットラーは、西部戦線の行き詰まりを打開するために東部戦線を開くことに決し(1940/7)、対ソ全面攻撃を指令し、翌年1941(S16)年の6月22日にバルバロッサ作戦が開始された。これ以前、1941(S16)年初頭独ソ開戦情報を入手するも軽視したようだ。ドイツが、二正面作戦の愚を採る筈がないとの先入主もあった。
 独ソ開戦との情勢激変を受け、国策が再検討された。問題はこの独ソ戦の情勢推移判断はどうであったかである。その見積に基づく国策の再検討と為されるべきであった。陸軍は、独の言を信じ、短期間に独ソ戦は終結すると誤断した。北方問題解決の千載一遇の好機到来と感じた。
 再検討された国策は、大別すれば、北進論、南進論、南北準備陣構想と言われるものである。一連の論争は、7月2日の御前会議で、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」として決定された。所謂「熟柿北攻、好機南進」となり、南進論が有利となったのである。南進論は、内定済みの南仏印進駐を断行し、東南アジア地域へ進出しようとするものであり、また「対米英戦を辞せず」との文言が盛り込まれた。この文言は、陸軍の北進論とのバランス上海軍の要求により、盛り込まれたという。決意なき「対米英戦辞せず」との文言挿入といわれる。
 欧州戦局の情勢判断を誤ったと云わねばならない。また、支那事変は泥沼化しているにも拘らず、対ソ戦を準備し、南方進出で対米英戦辞せずとの構想であり、修辞としては兎も角、本構想は果たして実際的であったのか?
 近衛首相は南部仏印進駐にも対ソ戦にも反対で、米国との関係修復を急ぐべきだと考えていたというが、政治的リーダーシップをとれずに、欧州戦局就中ヒットラーに翻弄されて日本は破断界(関特演、南部仏印進駐)に向かっていくこととなった。
 独ソ不可侵条約締結でドイツに不信を覚えた日本が一転三国同盟締結に突き進み、更に驚天動地の独ソ開戦で、またバタバタしてしまう、何とも情けない限りだ。

(第三十四話 了)