第三十六話 盧溝橋事件不拡大方針の破綻

山下 輝男


 盧溝橋事件(1937(S12)年7月7日)に対しては、日本は不拡大・現地解決方針であったが、日中両国の対応によって次第にエスカレートし、遂には期待された船津工作も中止され、戦火は第二次上海事変へと拡大していったのである。
 その状況推移を見てみる。



 盧溝橋事件の翌8日、陸軍中央と外務省は直ちに不拡大・現地解決の方針を決定した。杉山陸相は内地三個師団の派兵提案をするも、現調停戦協議成立(9日0200)の報もあり、見送られた。現地解決方式とは、正規の外交ルートに委ねずに、現地軍が地方政権を交渉相手として処理する方式である。
 然し現地では中国軍が撤退をせずに挑発を続け且つ中央軍北上の報もあって、11日には派兵が閣議決定された。
 11日には現地停戦協定が成立し、日本は動員を見合わせた。ところが、この停戦協定は、忽ち破られた。13日には日本軍の砲兵大隊修理班が襲撃され、兵4名が爆殺され、14日には、騎兵隊の二等兵が襲撃・惨殺された。
 19日、停戦協定中の細目協定が成立したが、中国側が突如一斉射撃を行ってきた。
 20日、中国側の不法攻撃に陸軍中央が内定していた内地三個師団の派兵を承認した。然し、現地視察した軍務課長の報告から内地三個師団の派兵必要ない旨の報告もあり天津軍も満鮮軍からの増派のみで十分との報告もあって、22日再度内地師団の派兵を見合わせた。二度派兵を決定し、二度中止したのである。
 しかし、中国軍の日本軍に対する攻撃は止むことなく、7月25日には廊坊事件(廊坊の電線修理の電信中隊が包囲攻撃された)、26日には、広安門事件(中国側の了解行動中の部隊が中国軍から乱射を受けた。)が起きた。広安門事件に因り不拡大派であった石原作戦部長も遂に不拡大方針を放擲せざるを得なくなったのである。27日、陸軍中央は、三度内地三個師団の動員を下令した。閣議も了承し、貴衆両院は陸海軍将兵に対する感謝決議を行った。
 28日未明、天津軍は、中国第29軍に対して開戦を通告、払暁から全面攻撃を開始した。中国軍は忽ち算を乱して敗走、29日には日本軍の平津(北平・天津地方)の掃討作戦は終了した。この時、通州事件(第六話参照)が起きている。
 隠忍自重してきた日本であったが、此処に至っては武力不行使の方針も、地域を北支に限定したとはいえ、放擲せざるを得なかった。三週間の不拡大方針、“虚し”とは思う。それでも不拡大方針を堅持すべきだったのだろうか?
 停戦協定を一時凌ぎ、時間稼ぎの作戦と考える彼に対するに、我は真面目に対応したと思える。彼の交戦意思を見縊っていたのか?現地解決方式は妥当だったのか?統制の採れぬ軍相手では現地解決方式しかないのかもしれぬが・・。一触即発の日中両軍にあって、支那駐屯軍が不測の事態に不覚を取らぬよう措置する必要もあり、北支方面の在留邦人の生命財産の保護の必要性もあり、増派はやむを得ぬことだった。
 支那駐屯軍の作戦は、河北省北部に限定されていたが、第一次上海事変による上海の非武装地帯に侵入した5万の中国軍は海軍陸戦隊に攻撃を開始し、在留邦人も危機に瀕していた。陸軍中央は、北支において地域を限定して武力行使を容認するも、中支への拡大は絶対回避する方針であった。8月15日居留民保護の為、海軍の要請もあって、一個師団を上海に派遣することとなった。斯くて、戦火は中支に拡大し全面戦争にずるずると発展していった。ともあれ、想いとは裏腹に戦火の拡大、誰の責任?

(第三十六話 了)