第三十七話 我が将兵の敢闘、此処にあり!(3)副題:ペリリュー島の奮闘と美談

山下 輝男


 大東亜戦争の話題はどうしても暗くなりがちだ。そういう中で、我が日本軍将兵の敢闘振りは、誇らしくもあり、何故かホッとする。今回は、NHKスペシャルで二回取り上げられた(2008/5/26、2014/8/13)ペリリュー島の戦いを取り上げる。
 ペリリュー島は、パラオ諸島の一つであり、パラオはWWⅠ後日本の委任統治領となり、日本統治下で産業も発展し、日本文化も定着して、日本人も相当数定住していた。
 日米戦開始後、劣勢に立たされた日本は、1943(S18)年9月末絶対国防圏を設定した。中部太平洋防衛の第31軍の作戦地域に、関東軍最強と言われる第14師団をパラオに派遣した。第14師団麾下の水戸歩兵第二聯隊を中核とする部隊をペリリュー島に、本島等に高崎第15連隊を基幹とした部隊を配置した。
 ペリリュー島守備隊は、総勢約10,500名であり、指揮官は中川州男大佐連隊長である。中川大佐は、伝達された「敵軍戦法早わかり」に基づき周到な防御準備を行った。
 水際環礁内に障害を設置、水際に機雷を迅速配備できるようにした。500以上に及ぶ地下洞窟を連接し要塞化して強固な陣地を構築した。
 一方、米軍は、ハルゼー提督のペリリュー迂回案ではなく、ミニッツのパラオ攻略戦を採用した。総勢約5万名、1個海兵師団と一個歩兵師団等を擁し、諸々を考慮すると日米の戦力比は、数十から数百倍であるとも指摘されている。
 米軍は上陸に先立ち、3日に及ぶ砲爆撃を行って、9月15日艦砲射撃に引き続き0800、満を侍して上陸を開始した。

 水際での死闘に引き続き、飛行場付近での戦いでも米軍に損害を強要し、ブラッデイノーズ・リッジの戦いと米軍が呼ぶ洞窟陣地による持久戦術に移行した。9月22日には日本軍が逆上陸を敢行した。米第一海兵連隊が壊滅したので、9月23日米軍は新たに歩兵第81師団を投入した。その後もファイブ・シスターズ包囲戦があり、米軍の損害は鰻上りとなった。然し、多勢に無勢、次第に日本軍は追い詰められ、11月24日中川大佐は拳銃自殺、師団派遣参謀や大隊長が割腹自決し、玉砕を報告する「サクラサクラ」の電文が送られ、55名の残存兵力による万歳突撃が行われた。日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日米軍が同島を占領した。実に二ヶ月以上に及ぶ日米の死闘であった。
 米海兵隊の評価は、「日本軍はアメリカ軍に多大な犠牲を負わせる事によって、長期に渡る遅滞・流血戦術を実行する事に成功した。ペリリューで被った多大なコストは、日本に向けて太平洋を進む連合軍に大きな警鐘を鳴らした。 (中略)この戦いは数か月後には硫黄島と沖縄での、日本軍の見事に指揮された防御戦術に繋がる事となった。」と云うものである。
 ペリリュー島の奮闘に対し、天皇から嘉賞11度、上級司令部から感状3度が与えられ、中川大佐は死後二階級特進し陸軍中将となった。
 島民との関係においては、一緒に戦いたいとのある老人の懇願を敢えて拒絶することにより開戦前に強制退去させた、死者・負傷者がゼロであった事でも知られている。
 後日談ではあるが、パラオ共和国が誕生した時、「ペ島の桜を讃える歌」がつくられ今に歌い継がれている。ペリリュー神社が再建されている由。また、パラオのジャンヌ・ダルクが活躍したとの都市伝説がある。1947(S25)年4月22日に生き残り34名が投降した。
 日本軍の敢闘精神のみならず、状況に応じた作戦計画の樹立と実行力の素晴らしさ、現地住民との心温まる交流の数々や一体感など我々はもっと誇って然るべきだろう。

(第三十七話 了)