第四十話 パネー号事件に見る偶発事態への対応等

山下 輝男


 支那事変の勃発が、直ちに日米関係の悪化に直結した訳ではない。当時における米国の極東政策の基調は、ハルの「中道政策」であり、日本としても支那事変の速やかな解決を求めたのであって、第三国との関係悪化は望んでいなかった。お互いに相手を刺激しないように慎重に行動していた。
 ルーズベルト大統領が、悪名高い「隔離演説」をしたのは、1937(S12)年10月5日であるが、それは反って米国民の反発を招いた。
 このような情勢の中で、第2次上海事変に引き続き、11月半ばには中支那方面軍隷下の第10軍が独断で進撃を開始し、方面軍も参謀本部も追認し、斯くて、日本軍の南京攻略作戦が開始された。
 この南京攻略戦の最中に起きたのが、本稿のテーマであるパネー号(又はパネイ号)事件である。発生と爾後処置について示唆に富む事件であるので、簡単に説明する。
 日本は南京攻略に先立ち、揚子江に停泊中の艦船を上流の安全地帯に退避させるよう勧告した。攻略当日の12月12日、陸軍からの攻撃協力要請を受けた日本海軍航空隊(第二連合航空隊)は、遁走する支那海軍と思しき船団を攻撃したのであるが、これが米アジア艦隊河川砲艦パネー号と同艦に護衛された3隻の米国のタンカーだった。
 パネー号は沈没、他の船も大破又は沈没し、米人死者3名が出た。
 米海軍LOから心当たりがないかと問われて確認したところ、誤爆であったことを認識、翌日アジア艦隊旗艦に参謀長を派遣して遺憾の意を表明、事件内容を通告した。同日ニューヨークタイムズ支局長に事実関係と謝罪と賠償の用意があることに言及した。同じく、同日広田弘毅外相は米国大使館に赴き謝罪し、14日には駐米大使が国務長官に面談すると共に、全米向けラジオで謝罪表明をした。山本海軍次官も、「未だ詳報に接せざるも、(中略)誤爆と断定し、謝罪し、誠意をもって責任をとる」と談話を発表した。その後米国からの抗議があり、司令官の更迭や譴責処分等を行った。12月23日には、米側の申し入れによる日米合同説明会が行われた。24日、外相は米の要求を全面的に受け入れる旨の正式回答書を手交した。米側の云う故意爆撃ではなく、飽くまでも誤認爆撃であると主張していた。



 米側は、パネー号の位置は通報済みで、判別可能な国籍表示もあり、意図的な攻撃であると云い、日本側は、汽船に多数の中国人が乗船しているのを目撃し、米国国旗は確認できず、中国船と誤認したと云うものであった。

① 日本の退避勧告を無視して日支の激戦地区への船団侵入の是非と責任は?
② 米海軍軍人の、「最大の軍艦旗は旗袋の中・・」との証言もある。
③ 米国国旗を表示していたとしても、支那軍が外国国旗を遁走に利用する事例多々あり、日本が不信の念を抱いたことも考慮する必要ある。
④ 米国タンカーは支那空軍基地への燃料(ガソリン)輸送中であり、利敵行為は中立条約違反である。
⑤ 日本が米国を刺激せぬように迅速かつ適切な処置をとったことは評価されてよい。
⑥ パネー号事件が起き、南京が陥落すると米国の危機感は高まり、極東政策再検討の声が高まったと云われる。然しながら、世論調査でも、米国民の意識は対日戦争を望んでいなかったのである。 

(第四十話 了)