第五十話 日米交渉、虚し!

山下 輝男


 米国は支那事変に対しても欧州戦線に対しても、特段の行動をとることなく、ただ枢軸国を非難し、非枢軸国に対しては軍事経済両面の継続的支援を行っていた。1940(S15)年秋から翌年春にかけて様々な対日政策、屑鉄の全面禁輸、ビルマルートによる援蒋輸送再開、米国は民主主義の大兵器廠発言、武器貸与法成立等々が続々強行された。

1 日米交渉の開始  日米諒解案に斯かる交渉
 悪化した日米関係の好転、支那事変解決促進の目的で日米交渉が開始された。
 米国神父が来日し、民間レベルの交渉が始まったのである。岩畔大佐、井川忠雄氏、ドラウト神父(英国情報機関幹部と頻繁に連絡していたとも)は、日米の主張を折衷して「日米諒解案」を作成し、野村駐米大使からハル国務長官に提案した。ハルは、「四原則」を逆提案し、それを了解するなら諒解案を提案するなら会談を始める基礎として良いと述べた。
 日本政府は、日米諒解案の受諾に傾いた。諒解案には、「日本軍の支那撤兵、支那領土の非併合、非賠償、門戸開放方針の復活、蒋・汪政権の合流、満州国の承認、日米通商関係の恢復、日米首脳会談の提案」があり、歓迎するのも当然だった。
 日ソ中立条約を調印して帰国した松岡外相が納得せず、大修正されて米国へ返電された。米国側修正案の再提示、更に日本側の訂正案が米に示された。
 6月、独ソ戦が始まり、米国は8月1日、対日石油禁輸に踏み切った。

2 近衛首相とルーズベルト大統領の首脳会談の模索
 松岡外相を更迭した近衛首相は、豊田貞次郎を外相に起用した。8月8日、日米首脳会談をハル長官に提案した。
 この時期、8月9日米英首脳が大西洋上で会談している。ル大統領は、首脳会談に一応賛意を伝えたが、強い反対もあり、米側にとって得策ではないと判断した。

3 東条内閣の対米譲歩案(第十三話参照)
 中国からの撤兵を模索し始めた近衛首相は、東条陸相の強硬な反対で退陣し、次の東条内閣は天皇の避戦の意向に沿って、11月2日、「甲案」「乙案」と呼ばれる対米譲歩案を決定した。甲案は米側の希望を出来るだけ取り入れた最終譲歩案で支那における通商無差別、支那及び仏印からの撤兵であり、乙案は南部仏印進駐以前の状態に戻ること等の内容であった。
 日本の暗号電報を解読していたハルは、甲案を無視、乙案にも一顧の価値もなしと黙殺された。また、三国同盟死文化提案も握りつぶした。

4 運命のハル・ノート
 日米交渉を徒に引き延ばし、鼻面を引きずり回した米国は、先ず、暫定協定案を発案して列国に示した。重慶政府が激しく反発し、チャーチルも批判するに及び、暫定協定案を破棄し、日本が拒否することは承知の上で10項目提案所謂ハル・ノートを11月26日通告してきた。此処において、日米交渉は打ち切られ、日米開戦を迫られることとなった。

 譲歩する気もないのに、時間稼ぎの交渉と条件を吊り上げる米国の対応は、明らかに日米交渉妥結を望んでいないと考えるべきだ。翻弄された日本が哀れとさえ思える。最も日本も日米交渉しつつ、国策に従って諸行動をとっているのであって、また米も同じだ。回り始めた歯車の回転を止めるのは至難の業なのだろう。対米交渉のネックは支那撤兵問題だが、撤兵を早い時期に決断していたらどうだったのだろうか?歴史にifはないが!!

(第五十話 了)