第五十五話 学童疎開と悲劇

山下 輝男


 本土空襲(第五十四話)に関連するのが「学童疎開」である。その学童疎開の概要を述べる。
 学童とは、国民学校初等科(従前の尋常小学校)に通っていた児童を云う。「疎開」は、今では「避難」と言うべきかも知れない。(「転進」と同様な用法だと批判する向きもあるようだが・・)
 前話で述べたように、米軍による本土初空襲(1944/6/16八幡空襲)直後の6月30日に「学童疎開促進要項」が閣議決定され、これ以降学童疎開が大規模に行われるようになった。


1 「学童疎開促進要項」以前の疎開
 1941(S16)年12月には、学童は病人等と共に事前避難の対象とされ、1943(S18)
 年10月「任意の人口疎開」を、12月の閣議で「都市疎開要項」を決定した。
 東京都区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などが疎開地区とされた。
 翌年の4月1日現在では、国民学校初等科学童の9.3%が縁故疎開していた。
 同時期示された内務省案では、東京都国民学校3-6年生のうち20万人を近隣の県に疎開させ、生活費は20円/月とし、半額国庫負担、期間一年との計画だった。



2 「学童疎開実施要項」閣議決定(1944/6/30)後
(1)7月7日 緊急閣議で沖縄の疎開が決定
(2)8月4日 東京からの第一陣の児童出発
(3)8月16日 沖縄県の九州などへの疎開開始
(4)8月22日 対馬丸沈没(後述)
(5)12月末現在の全国疎開児童数(3~6年)
 縁故疎開:約32万3千人、集団疎開:約34万8千人、残留組:32万7千人
 合計 約103万4千人

(6)1945(S20)年3月9日 集団疎開一年以上継続
(7)11月中に疎開先より引き揚げた。

 宿泊先は、主にお寺か旅館。地元の小学校へ通い又は旅館内で勉強、勉強のほかに『勤労奉仕』とよばれる農作業なども行った。疎開先児童との交流・摩擦多々あり。



3 対馬丸事件

 サイパン陥落(1944/7/7)の次は沖縄だとの判断の下、同日政府は奄美大島や徳之島及び沖縄県の、年寄り・子供・女性を島外へ疎開させる決定をした。予定人数は、日本本土へ8万人、台湾に2万人の計10万人。しかし県民の疎開はなかなか進まず、7月19日、県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令し、学校単位で疎開事務を進めた。
 学童疎開船「対馬丸」(6754トン)は、1944(昭和19)年8月21日夕方、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1788名を乗せ、同じように疎開者を乗せた和浦丸・暁空丸と護衛艦の宇治・蓮を含む計5隻と船団を組んで長崎を目指し出航した。しかし翌22日夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け、10分後対馬丸は沈没した。犠牲者数1484名
 引き揚げ困難につき、代替として記念館(2004年竣工)、ボーフィンは1981年(昭和56年)以来、「真珠湾攻撃の復讐者」として戦艦アリゾナ近辺に展示(?)されていると云う。今なお、越えられない壁があるのだろう。が、無辜の児童の犠牲は許されない。また、学童を盾にしたとの謂われなき中傷にも問題ある。

(第五十五話 了)