第五十九話 支那撤兵の決断は

山下 輝男


 大東亜戦争を俯瞰した時、不可解に感じることがある。それは、支那事変が大陸全土に拡大し、謂わば、泥沼化し、解決の道筋も見えない中で、北にソ連の脅威を感じつつも、何故、強大な米英蘭に戦いを挑まざるを得なかったのか?二正面或いは三正面に近い作戦を行う能力など抑々無かったのにも拘らず。米国に強要され、止むを得ず、戦いの火蓋を切らねばならなかったとしても、その前に支那事変を解決すべきだったのだとの思いを強く抱く。
 第二十五話で述べたように様々な和平工作を行い、または軍事力により中国の戦争継続意思を断念させるべく軍事作戦を継続したが、何れも実を結ぶことは無かった。
 更に、その後の日米交渉段階になると支那事変解決は更に遠のいたのである。

1 桐工作
 船津和平交渉、トラウトマン工作、汪精衛を通じる和平構想等々ある中で、「桐工作」(1939(S14)年12月末~1940(S15)年9月27日)は天皇へも上奏が為され、大いに期待もされた。
 蒋介石は、日本が南下に傾いている時だから、有利な条件で講和ができると考えていた。その背景としては、援蒋ルートを英・仏が日本の要求に屈して閉鎖したことにあるという。また、国共内戦も重要な要因であった。
日本が考えていた停戦許容条件は、①国交調整の基本原則としての善隣友好、協同防共、経済提携 ②満州国の承認 ③容共抗日策の放棄 ④防共駐兵であり、日本側がかなり譲歩した案であった。
 昭和天皇は、1940/8/5と8/21に和平の進捗状況を聴取させている。三国同盟の本格交渉一月前頃のことである。
 然し、第二次近衛内閣(1940/7/22~)が発足し、新陸相の東条大将は桐工作に冷淡であった。
 双方にとっての懸案事項は、満州国承認問題と日本軍の駐兵問題であった。
 中国側は日本側での更なる譲歩を求めてきたが、支那派遣軍は、それを肯じず、桐工作を中止するに至った。
 1941(S16)年10月14日 東条陸相は閣議で「駐兵問題は心臓だ。日本帝国の譲り得ない生命そのものである。」との発言を行っており、これが日本陸軍の総意だった。どうしても譲れない一線だったのだろう。





2 日米交渉も、東条陸相の支那撤兵問題により膠着状況に陥った。最も、日米交渉の最終段階で、11月2日対米譲歩案「甲」「乙」両案を決定した。甲案には支那からの撤兵も含まれていたが、“時既に遅し”だったと云えよう。(第五十話参照)  


3 満州国の承認問題もさることながら、日露戦争、満州事変、ノモンハン事件そして支那事変を戦った日本陸軍としては、流れた将兵の血の多さもあり、日本国民の努力・困苦による開発努力を空しくする支那からの撤兵は到底容認できないものだったのだろうとは思う。然は然り乍ら、日米が戦わねばならぬ局面に至っても支那からの撤兵拒否に拘らねばならなかったのかと残念だし、土壇場で撤兵を認めたのであれば、何故早く決心出来なかったのかと悔やまれる。
 慧眼の士の献策が用いられなかった。優柔不断なトップリーダーではこのような重大な決断はできないのだろう。歴史の後知恵かも知れぬが・・

(第五十九話 了)