第六十八話 斯かる重き決断を誰が為せるや!

山下 輝男


1 日本の本土防衛作戦計画
 1944(S19)年7月のサイパン島陥落に伴い絶対国防圏は崩壊し、米軍の日本本土侵攻も予期されるようになった1945(S20)1月、大本営は、本土決戦を想定した「決号作戦」を策定した。計画に従い、5個方面軍に再編成した。本土決戦時の兵力想定は関東128万人。米軍主力上陸を関東方面と予測、関東方面の作戦「決三号」は、「昭和二一年春を公算最も大」、上陸地点を相模湾、九十九里浜、鹿島灘と予測し、相模湾を予想上陸地点の第一案としつつも兵力を展開できる九十九里浜に兵力を集中させることとした。
 防御方式が二転三転し、敵味方の「砲弾を浴びながら突進し、敵と刺し違える」という玉砕戦術が「新決三号作戦計画」として採用されたが・・訓練未熟、装備劣悪、準備不足となれば残された道はこれのみか!嗚呼!


2 連合軍の計画
 ミニッツとマッカーサー両将を競わせての対日侵攻であったがそれも順調に進捗し、また、1944(S19)年6月のノルマンディー上陸作戦で欧州戦局の見通しも得られ、日本本土侵攻作戦が現実問題として浮上してきた。
 1945年3月29日、米統合参謀本部は、事前作戦としての九州侵攻作戦「オリンピック」(45年12月)、本作戦となる関東平野侵攻作戦「コロネット」(46年3月)の二段階計画からなる対日侵攻作戦「ダウンフォール」を発表した。ダウンフォールは「破滅、滅亡」を意味し、枢軸国で唯一降伏しない日本に対して大量破壊兵器や毒ガスによる無差別攻撃など、文字通り日本国そのものを滅亡させる目的で命名された。米英仏の戦力を使用し、ソ連を外すとされた。
 オリンピック作戦は、九州南部に上陸・占領し、関東平野侵攻作戦(コルネット作戦)支援体制を確立させる。米軍の九州上陸への使用可能兵力は十四or五個師団、上陸の最重点地点は志布志湾、時期は十月末から十一月初旬の頃とされていた。
 1946年3月には、関東平野侵攻作戦(コルネット作戦)を敢行すると云うものであった。コルネット作戦には、上陸地点は、九十九里と相模湾、兵力は総計十三個師団、更に欧州から転用可能な十個師団。戦闘部隊だけでノルマンディー作戦の四倍にも及ぶ。米軍は決戦時の日本軍の総兵力を35万~37万と見積もっていた。
 統合参謀本部議長のレーヒ元帥は、「すでに壊滅している日本に対し作戦を遂行する必要なし」として中止を提案。海軍作戦本部長キング元帥も、「地上兵力投入による本土侵攻より海上封鎖が有効」と主張。陸軍航空隊総司令官アーノルド元帥も「本土への戦略爆撃と海上封鎖が有効」と言う慎重論を出した。彼等がこのような主張をしたのは、日本軍との各諸島での戦闘、とりわけ硫黄島や沖縄戦でのアメリカ軍やイギリス軍の損害の大きさに、本土戦での犠牲者の数を懸念したためである。
 尚、本計画は、日本への原爆投下が優先されたため計画が保留となった。
(1)日本は米軍の計画を読み切っていたと云う。情報参謀斯くあるべしだ。
(2)ダウンフォール作戦が実行されていたら、日本は壊滅していたと断定できよう。
(3)日本軍の勇戦敢闘が連合軍をして慎重ならしめたのは事実だろう。
(4)確かに一撃後の和平持ち込みは有りうるのだろうが、一撃すらも出来ぬほどボロボロになっていたのではないのか。理においては斯く考えるが、皇国の意地があったのか。何れにしろ、決断の時期は過ぎていた。統帥部内での和平論は極めて少なかったようだ。
(5)天皇の御聖断は素晴らしい御決断であるとしか言いようがない。冷静に大所高所から全般を見ておられたから、あのような決断ができたのだろう。君臨すれど統治せずの天皇の思い切った御決断(聖断)が日本を壊滅から救った。感謝!

(第六十八話 了)