第七十一話 日本国内の捕虜収容実態等

山下 輝男


 日本が米英蘭に宣戦布告して以来、その快進撃もあって、連合軍の大規模な降伏が相次ぎ、日本は大量の捕虜(最終的に約35万人とも)を管理せざるを得なくなった。植民地兵は、日本に反抗しないことを条件に、原則として釈放されることになったが、欧米人の兵士約15万人は、現地に設置された捕虜収容所で俘囚の生活を送ることになった。1942年始めの時点では、日本国内の捕虜収容所は香川県善通寺に設置された1ケ所だけで、日本軍がグァム島を占領した時に捕えたアメリカ兵などを収容していた。
 本話では、日本国内における捕虜収容所とその実態等をPOW研究会(http://www.powresearch.jp/jp/archive/camplist/)のHPから要点のみ紹介し参考に供したい。詳細は同会のHPを参照して頂きたい。

1 捕虜管理組織設置
 ハーグ条約で義務づけられた「俘虜情報局」を、1941年末に陸軍省内部に設置し、翌年3月には、陸軍省軍務局に「俘虜管理部」を設置した。


2 連合軍捕虜の移送と捕虜収容所設置 
 1942(S17)年5月、政府は労働力不足を補う手段として、捕虜の一部を満州、朝鮮、国内に移送し使役することに決し、同年末から捕虜収容所を順次開設していった。
本所:7ヶ所(当初は函館、東京、大阪、福岡、爾後3ヶ所増設仙台、名古屋、善通寺
 国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは約130ケ所に及ぶ。その一方、途中で閉鎖されるものもあり、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があった。
 捕虜の管理は陸軍担任であったが、海軍も情報収集上必要として捕虜を仮収容する施設を大船に設置した。


3 捕虜取扱規則等
・日露戦争時に定められていた「俘虜取扱規則」や「俘虜取扱細則」などを現状に合うように改正するとともに、「俘虜給与規則」、「俘虜派遣規則」、「俘虜労務規則」なども順次定められた。
・ジュネーブ条約を準用するとしつつも監視員等に対する教育は不十分だった。


4 収容捕虜数
 国内の収容所に収容された捕虜の総数は約36000人に達するが、それ以外に、移送中に輸送船が撃沈され、約11000人の捕虜が海没するという悲劇もあった。


5 捕虜の生活実態等
・施設:使役企業が準備、軍が維持管理、倉庫・従業員宿舎・学校等括用、蚕棚方式や
 茣蓙、裸電球、火鉢・ドラム缶式ストーブ、汲取便所、風呂回数少なし
・食事:捕虜の当番が炊事、日本式食事が基本、飢餓と栄養失調が深刻
・衣服:支給されるも戦況悪化により深刻化
・日常生活:あまり干渉されなかった ・宗教・通信:比較的自由
・労働:建前と違い過酷な労働、将校も自発的に? ・医療:軍医、診療所有るも不十分
・監視員による暴力は日常茶飯事
・死亡者:死亡率は約10%(移送中の死亡者含む)(現地の死亡率に比すれば格段に低い)
 死亡原因:栄養失調、過労、病気・衰弱死



6 捕虜の解放と戦犯裁判
 敗戦と同時に、米軍は捕虜救援物資投下、裁判起訴475名うち28名が死刑
総じて、国内は現地ほどではなく、厚遇されていた。教育不十分は問題だった。

(第七十一話 了)