第七十三話 2ルートの原爆開発と天皇の猛反対

山下 輝男


 帝国陸海軍は、大東亜戦争の期間中、それぞれ独自に原爆開発計画を推進していた。帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)と帝国海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字より)である。原爆開発を知った天皇が猛反対された事実もあり、朝鮮北部にあった施設や技術者の行方についても興味深いものがある。


1 陸軍の「ニ号研究」
 1940年に理化学研究所の仁科芳雄博士が安田武雄陸軍航空技術研究所長に対して「ウラン爆弾」の研究を進言したといわれている。研究には理化学研究所の他に東京帝国大学、大阪帝国大学、東北帝国大学の研究者が参加した。
 1941年4月に陸軍航空本部は理化学研究所に原子爆弾の開発を委託、アメリカ合衆国によるマンハッタン計画が開始された翌年の1943年1月に、同研究所の仁科博士を中心にニ号研究(仁科の頭文字から)が開始された。この計画は天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、1944年3月に理研構内に熱拡散塔が完成し、濃縮実験が始まった。濃縮10%で可能かどうか、議論もあるようだが・・


2 海軍の[F研究]
 他方、日本海軍のF研究も1941年5月に京都帝国大学理学部教授の荒勝文策に原子核反応による爆弾の開発を依頼したのを皮切りに、1942年には核物理応用研究委員会を設けて京都帝大と共同で原子爆弾の可能性を検討した。こちらは遠心分離法による濃縮を検討していた。


3 ウラン入手について

 当時、人形峠のウラン鉱脈は知られておらず、外地で探索を行うも捗々しくなく、上海の闇市場に触手を伸ばしたり、ナチスからの輸入も試みられたが、臨界量以上のウラン235の入手は絶望的だった。


4 技術  (割愛)


5 終戦直前における開発レベルは
 結局は基礎段階を出ていなかったとされる。
・理化学研究所の熱拡散法:効率が悪く、10kgを製造不可能と判断
・京都帝国大学の遠心分離法:1945年の段階で遠心分離機の設計図が完成
然しながら、西日本新聞(1999/8/6)の記事によれば、旧日本軍が現北朝鮮の興南沖
合で原爆実験を実施したとの情報を米軍がつかみ、戦後日本を占領統治したGHQなど
が秘密裏に調査・・米軍は興南にあった化学コンビナートで日本海軍が秘密裏に核開発
を進めていたとみて、朝鮮戦争に乗じて疑惑施設を徹底的に爆撃・・尚、科学者はソ連に抑留され、興南は八月十二日、進攻ソ連軍に占領された。』と紹介されている。


6 天皇の猛反対
 仁科博士から原爆の話を聞いておられた天皇は、太平洋上の米国の戦略地点への原爆投下の腹案を持って昭和天皇に奏上した際、反対された。何たる御英断哉!

 天皇陛下のご英断に感服しきりだ。原爆投下を決断したトルーマンと比較したくなる。日本の技術力は大したものだと思うが、何故二本のルートが必要だったのか、愚策の極みだ。新型爆弾を突き止めたF研究メンバー、彼等が残した原爆調査資料や研究ノート(写真)が新たに見つかったとの産経記事(2015/7/23)もある。基礎研究レベルでは米国に比肩し得るレベルだったとも云える。日本の基礎研究の現状は?

(第七十三話 了)