第七十七話 カウラ事件と日豪関係

山下 輝男


 本日(2019/8/31)朝NHKでカウラ事件関連を報じていたが、寡聞にして承知していなかったので、調べてみた。カウラ事件から75年を迎えた本年(2019)年8月5日には、収容所跡地に日豪の関係者が集い、死者を追悼したとも報じられていた。


1 カウラ事件とは
 1944年8月5日未明、豪州シドニーから西に約320キロの町カウラにあった捕虜収容所で発生した捕虜の集団脱走事件である。結果としては失敗し、警備兵の銃撃で231名が死亡し、脱出できた捕虜も数日のうちに全員捕まり、収容所に連れ戻された。
 捕虜収容所の脱走事件としては、史上最多の人数(日本人収容者数1,104名の内、545名以上)と見られる。尚、本事件で豪兵4名が死亡している。


2 収容所の概要
 収容所の敷地は12角形(直径約600m)をとっており、90度角A,B,C,Dの4ブロック構造で、日本人将校はD、下士官兵はBブロックに収容されていた。 


3 収容捕虜の状況

 収容捕虜:枢軸国捕虜・被拘束市民約4,000名が収容されていた。日本軍捕虜は1943年1月から収容された。当初は、海軍航空兵が主であったが、次第に陸軍が大半を占めるようになる。1,104名の日本人がカウラ収容所にいた。本名または偽名で登録していた


4 捕虜の収容状況
 捕虜の生活:トマトやブドウ等の栽培を行っていた。また警備は緩く、豪軍は負傷者・栄養失調者などを含む捕虜に、手厚い看護・介護を施した。日本人は人気の高い野球、相撲、麻雀などのリクリエーション活動が自由に許され、野球のバックネットを運動場に建てる写真が残されている。


5 警備
 日本人捕虜が暴動を起こした(フェザーストン事件)こともあり、カウラ収容所も警備の強化が行われる。但し、年配の退役軍人や、前線勤務には健康状態が適合しない評された若者等主体の市民兵守備隊であった。ヴィッカース機関銃と自動火器を装備


6 日本人捕虜の状態
 運営は捕虜による自治が認められていた。捕虜は、強硬派と穏健派に分かれていた。


7 脱走
 朝鮮人日本兵捕虜の脱走計画ありとの密告に基づき、兵士分離の上他の収容所に移送するとの豪軍の計画を知った日本人捕虜は、協議するも結論出ず、捕虜全員の多数決投票(トイレットペーパーに移送受諾か否かの○×)を行った。圧倒的多数で脱走に決定した。班長会議で作戦命令を決定、捕虜たちは準備を整えたのち、残飯で作った濁酒を呷った。1944年8月5日午前2時過ぎ程からの深夜帯に突撃ラッパを合図に、将校と入院者含め不参加者118人(一説では138人)を除く900名の日本兵は集団脱走を決行する。武器は、身近にあるフォーク・ナイフなどの金属製品、野球バットに過ぎなかった。各自自決用の剃刀を持った。決行前、足の悪い者は次々と縊死した。


8 カウラには戦後、日本人墓地のほか、日本庭園が整備された。庭園と収容所跡地を結ぶ通りには桜の木も植えられ、毎年開花の時期に合わせて祭りが行われている。日本人墓地に眠る人々に関する日本語のデータベースもできた。日豪和解の場となっている。上皇・上皇后も同地を訪れ供花し、他の皇族方も訪れておられる。


*死ぬための脱走だったとの生存者の証言がある。可能性皆無の脱走の是非は?生きて何度も祖国のために戦うとの気概は?怨讐を越えた和解に敬意。亡くなられた方々に合掌!

(第七十七話 了)