第七十八話 国境紛争対処と対支作戦の二正面作戦をどう見るか

山下 輝男


 大東亜戦争を大局から見た時に想うのは、北の脅威をひしひしと感じ、或いは対処しつつ、一方では、支那での作戦を遂行しているのは何故かということだ。当時の日本陸軍に二正面作戦を遂行し得る能力はあったのかという疑問がある。或いは強いられたのかかも知れないと推定も出来よう。本話はそのような問題意識で、満ソ国境紛争と支那での作戦遂行を俯瞰的に眺めてみたい。


1 1937(S12)年以降の満ソ国境紛争及び支那事変の状況

・1937(S12)年
 6月~7月 満ソ国境 乾岔子島事件
 7月7日 盧溝橋事件  7月11日現地停戦協定
 8月13日~11月26日第二次上海事変(11月中旬上海制圧)11月20日蒋介石重慶へ
 12月13日 南京陥落  (中支那方面軍編成11/7,10軍独断進撃)
・1938(S13)年
 7月29日~8月11日 満ソ国境 張鼓峰事件
 6月11日~10月27日 武漢作戦
            武漢三鎮(武昌、漢口、韓陽)陥落
・1939(S14)年
 5月~9月 満ソ国境 ノモンハン事件
・1941(S16)年4月 日ソ中立条約締結 北辺の静謐化




2 国境紛争の頻発拡大
 極東ソ連軍の増強に伴い、ソ連軍による満ソ国境侵犯事件が頻発し、その規模も大規模なものになってきた。大規模国境紛争と位置付けられる乾岔子島事件、張鼓峰事件そしてノモンハン事件も、国境不明確な地でのソ連軍による侵犯が契機である。国境線の不明確性を悪用したとも云える。帝国陸軍は不拡大方針の下に隠忍自重するも、止むを得ず反撃せざるを得なかった。ソ連側とはその都度停戦協定を締結すれども、ソ連は、その度に停戦協定に違反して侵犯を繰り返した。ソ連の意図については明確なものはなく、また中国と事前に戦略調整した形跡もないが、日本軍の支那事変の状況を睨みながら、日本に二正面作戦を強いたと考えられなくもない。日本の弱みを突いたと考えてもいい。彼等の作戦目的が、将来作戦を見据えての威力偵察と考えられなくもない。


3 二正面作戦の回避は出来なかったのか
 支那事変も支那の挑発そして交戦・撤退の繰り返しに乗ぜられて、支那全土へと戦火が拡大していった。和平の切っ掛けも掴めず、速戦即決主義を掲げた軍事作戦による軍事的屈服をも期待し得ず、泥沼に陥ったとも云える。
 そのような状況を好機到来と満ソ国境において逐次に勢力拡大をしたのがソ連である。日本陸軍には、“ソ連軍組み易し”との意識があったのではないか。真実は辛勝だった筈の日露戦争で勝利したとの記憶・慢心があったのかも知れぬ。だとしても、シベリア出兵以降ソ連軍の近代化に気付いていた筈だし、国境紛争を通じて“ソ連軍侮り難し”と気付いた筈ではないのか?
 また、支那事変は、支那軍鎧袖一触で屈服させて、簡単に軍事的に解決できると思いこんでいたのだろう。「二正面作戦は避くべき」との原則は解っていた筈だが、外交的解決を求めるのも面子があったのか?日ソ中立条約の是非は兎も角、それ以降北辺が静かになったことを思うと早くそういう状態に持っていけなかったとも思う。支那との和平であっても良かったはずだ。日本陸軍の過信・慢心そして面子があったような気がする。外交と軍事がリンクしない、それを調整し得ない最高戦争指導に問題がある。

(第七十八話 了)