第七十九話 第二次上海事変と居留民保護

山下 輝男


 盧溝橋事件(1937/7/7)により始まった華北(北支)での戦闘は、一旦は停戦協定が結ばれたものの、7月25日の廊坊事件、26日の広安門事件、29日の通州事件と続き、日本陸軍内の拡大派が主導権を握り中支へと戦火が拡大した。そして第二次上海事変へと飛び火したのである。本話では、第二次上海事変を取り上げ、居留民保護との関係を見てみたい。


1 事変に至るまでの情勢推移
(1)支那軍の上海攻略準備の推進
 独軍事顧問団の“漢口と上海に対する奇襲進言”を受け、国民政府は所要の準備に着手した。
(2)不穏な情勢を察知した日本政府は、揚子江沿岸の在留邦人3万名弱を、先ず、上海へ、次いで婦女子約2万名を帰国させ、結果的に約1万名が残留した。
(3)抗日・排日事件の頻発
 秘密結社による抗日・排日事件は引き続き起きた。1937年7月24日には「宮崎水兵事件」、8月9日には、「大山事件」が起き、日支両軍は一触即発の状況となった。在上海領事団会議を経ての上海市長への申し入れも効なかった。    


2 戦闘
 8月13日朝には、日支両軍の武力衝突が起き、14日中国による在上海の日本海軍艦艇への爆撃、日本海軍も渡洋爆撃を計画した。陸軍は上海への派兵に消極的であったが、現地からの再三の派兵要請を受けた海軍側に折れ、13日に陸軍二個師団の派兵が決定された。15日、上海派遣軍が編制、日本海軍は前日に延期された九州から南京への航空機による渡洋爆撃を開始した。8月18日、英政府が日中両国に対し、「日中両軍が撤退し、日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告し、仏政府はこれを支持、米政府もすでに戦闘中止を要求していた。が、日本政府は、これを拒否。各国の租界の警備兵は大幅に増強され、各地域はバリケードで封鎖して中国軍と対峙したが、中国軍も列強と戦争を行うつもりは無かったので、租界への侵入は行わなかった。日中の衝突が列強の即得利益を脅かしかねないと感じた列強各国はこの事件において中立を表明した。
 8月19日以降も中国軍の激しい攻撃は続いたが、海軍特別陸戦隊は10倍ほどの精鋭を相手に、大損害を出しながらも、租界の日本側の拠点を死守した。8月23日、上海派遣軍の2個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で上陸に成功した。が、上海派遣軍の攻撃は大苦戦し、橋頭保を築くのが精一杯だった。8月30日には海軍から、31日には松井軍司令官から、陸軍部隊の増派が要請され、石原莞爾参謀本部第1部長が不拡大を名目に派兵を渋っていたが、9月9日、動員下令、10月9日、3個師団を第10軍として杭州湾から上陸させることを決定した。不拡大を主張した石原は更迭された。
 10月26日上海近郊の要衝を奪取し、上海をほぼ制圧、11月5日第10軍が上陸、11月9日には支那軍は焦土作戦を行いつつ、退却を始めた。そして、第10軍の南京への独断追撃が始まるのである。


* 居留民全てを内地に引き揚げさせる訳にいかなかったのだろうか?居留民を保護し且つ現地部隊を救援するために、部隊を派遣せざるを得なくなってしまった。上海での責任を有する海軍・そして政府の苦衷も解るが、残念な気がする。何処かで歯止めを掛けなければどんどん拡大してしまうものだ。国際的な枠組みも重要だろうに・・

(第七十九話 了)