第八十三話 大東亜戦争間に起きた4連続大地震

山下 輝男


 大東亜戦争遂行中にも、日本は地震災害に見舞われている。戦争末期から直後に掛けて、4年連続で、鳥取地震(S18)、東南海地震(S19)、三河地震(S20)及び南海地震(S21)である。国が大変な時に、天は厳しい試練を与えたのであろう。その試練にどう立ち向かったのだろうか?


1 鳥取地震
 発生:1943(S18)年9月10日、震源地は現・鳥取市野坂川中流域、M7.2 (Mw7.0)。
 震源が極めて浅かった。死者 1,083人、被害総額 1億6,000万円(当時)
 戦中でもあり、住民の防災訓練が徹底されており、混乱、流言蜚語なし
 戦時中なので情報は統制されていたが、市関係者以外閲覧禁止として鳥取県震災小史が発刊されている。それによれば、戦時中ながら国内外から多数の援助があり、満州国皇帝からも支援金が送られたと記録されている。しかし、終戦時に多くの資料が破棄されているため、地震の詳細は不明な点も多い。


2 (昭和)東南海地震
 発生:1944(S19)年12月7日、震源:熊野灘、尾鷲から浜名湖沖まで破壊
 M7.9のプレート境界型巨大地震。死・行方不明 1223人
 戦時下であり、軍需工場の被害状況などの情報が連合国に漏れることを恐れた軍部は情報を統制、地震についての情報は、3面の最下部のほうに申し訳程度にわずか数行 そのため他の地域からの救援活動もなく、被災地は孤立無援となったと云う。
 ただ、世界は承知しており、「破壊的」と大きく伝えた。
 米国は、心理戦の一環で、B29からの投下宣伝ビラには「地震の次は何をお見舞いしましょうか」と有ったとの証言あり。地震から6日後の12月13日夜には、津波の被害にも晒され惨事となっている名古屋地域の航空機工場を中心とする一帯に、アメリカ軍は大規模な空襲を行った。


3 三河地震
 発生:1945(S20)年1月13日三河湾で発生、マグニチュード6.8(Mw 6.6)直下型。
 政府により報道管制が敷かれ、地震発生の報道はしたが、被害規模やその後の状況などは多くが伏せられた。但し、地元新聞は比較的多い報道、学術調査団派遣も。地震被害の報道がなされなかったことで、近隣地域からの救護団も無く更に、地震直後の行政による組織的な救援活動が実施されたとの記録は残っていない。しかし、明治航空基地や海軍基地の軍関係者による小規模な救助及び復旧活動が行われたとの証言が残っている。地震発生から2カ月後から行政(県)の手配による「工作隊(?)」が組織され復旧活動が進められた。


4 (昭和)南海地震                    
 発生:1946(S21)年12月21、震源:潮岬南方沖78 km、深さ 24Km、マグニチュードM8.0(Mw8.4)、死・行方不明者1330名、全半壊等3万5千戸余
 南西日本一帯では地震動、津波による甚大な被害が発生した。他の年代に発生した南海地震と比較して、被害の規模は小さかったと考えられる。被害は中部以西の日本各地に亘り、特に高知県・徳島県・和歌山県では大であった、津波: 4 – 6m 
 高知市は米の空襲とのダブルパンチ


*人の弱みに付け込んでと思わないでもないがそれが心理作戦か。戦争中でも特段の混乱なく、流言蜚語なきは民度の高さの証明か。広く知らしめねば救援なしだとは思うが、 行政も麻痺していたのだろう。手はなかったのか?3つは、南海トラフ巨大地震の震源域内だ。

(第八十三話 了)