第八十五話 国家存亡の危機時の非常措置:学徒出陣

山下 輝男


 毎年、その時になると恒例の如くに流される映像がある。それは1943(S18)年10月21日に明治神宮外苑競技場で行われた第一回出陣学徒壮行会の映像だ。学徒壮行会は、冷たい秋雨が降りしきる明治神宮外苑競技場(後の国立競技場)で首都圏の77校が参加して行われた。本話では、学徒出陣について概観する。


1 学徒出陣の決定
 日米戦の戦局次第に悪化し、広大な戦線維持及び戦死者の増大により戦力不足が顕著となってきた。従来、兵役法などの規定により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていた。
 この戦力不足を補うため、政府は、徴兵猶予の幅を次第に狭めてきた。大学、専門学校などの修業年限を3ヶ月短縮(S16年)、更に予科と高等学校も対象として修業年限を6ヶ月間短縮(S17年)の措置を採って入隊者増を図ったのである。
 そして、更に翌1943(S19)年10月1日、当時の東條内閣は「在学徴集延期臨時特例」を公布し、“理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃”したのである。この特例により、徴兵検査の後、丙種合格者(一部除く)までを12月に入隊させることとした。これが所謂「学徒出陣」である。
 日本国籍であった台湾人や朝鮮人、満州国や日本軍占領地、日系二世の学生も対象とされた。尚、学生は休学扱いであった。


2 総数等
 学徒出陣によって陸海軍に入隊することになった多くの学生は、高学歴者であるという理由から、陸軍の幹部候補生・特別操縦見習士官・特别甲種幹部候補生や、海軍の予備学生・予備生徒として、不足していた野戦指揮官クラスの下級将校や下士官の充足に充てられた。
 全国で学徒兵として出征した対象者の総数は日本政府による公式の数字が発表されておらず、大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。
 出征者は約13万人という説もあるが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示すことができないままである。              


3 学徒出陣壮行会

 第1回は東京・台北同時開催で、各地を含め計13回実施された。
 明治神宮外苑競技場での走行会は、文部省学校報国団本部主催、東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった。
 入場行進(観兵式分列行進曲「扶桑歌」奏楽:陸軍戸山学校軍楽隊)、宮城遙拝、岡部長景文部大臣による開戦詔書の奉読、東條首相による訓辞、東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞、「海行かば」の斉唱、などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終わったとされる。出陣学徒は学校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた学校旗を掲げ、学生帽・学生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い列した。


4 復員した者は、戦後大いなる活躍をした。政界、財界、学会、文化・芸術等
 江橋慎四郎・竹下登・宇野宗佑・塩川正十郎・村山富市・渡辺美智雄・李登輝・
 千玄室・西村晃等


5 戦没学徒兵の想いを伝える「はるかなる山河に」(東大1947)「きけ わだつみのこえ』(1949)の出版(当時、大ベストセラーとなる。)

*江橋氏の「『生還を期せず』なんて言いながら死ななかった人間は、黙り込む以外ない」との言は重い。国家滅亡の危機には根こそぎ動員にならざるを得ないのか?

(第八十五話 了)