第九十三話 和平条件の吊り上げ→終結の見えぬ支那との戦いに

山下 輝男


 盧溝橋事件の不拡大策が失敗し、戦火は中支にも拡大し、第二次上海事変も勃発(1937/8/13)した。この時期トラウトマン和平工作が行われており、また9ヶ国条約国会議(日本は不参加)も開催された。この会議とは別に、独を通じて、英米仏独伊に和平条件を提示したところ、穏当なものと判断した独は、トラウトマンを通じて、支那に条件を11月15日提示した。グルー駐日大使にも米国が蒋介石を説得するように依頼している。                  

1 南京陥落
 この当時、陸海軍はなお、長期の全面戦争を望まず、10月上旬に北支及び上海戦で一大痛撃を与えて和平動機の作為を企図していた。然しながら、中国では国共合作が成立し、且つ中ソ不可侵条約も締結された。
 政府は、10月1日、支那事変対処要綱を策定(満州国承認、北支等に非武装地帯設定、日支防共協定締結等)した。
 一方、第二次上海事変は終了して、新たな段階に移行しようとしていた。11月23日には南京に向かう追撃が開始された。
 南京に危機が迫った12月2日、蒋介石は日本提案の当初の和平条件を基礎とする和平交渉について独の仲介を受諾する意向を示し、中国側としての和平条件も提示した。
 南京への追撃は進捗して12月7日までに首都南京攻略の態勢は整い、13日には南京入城を果たした。


2 和平条件の吊り上げと和平の挫折
 敵国の首都南京を攻略したことにより、対支和平条件に変化が出始めた。
 12月17,18日の閣議で、従来の経緯を知らない閣僚から、広田外相の提示した和平案に対して、軟弱であるとの強硬意見も出て、21日に予定していた独大使への回答は著しく強硬なものとなったのである。
 中国政府もその気になり、列国からも概ね賛同を得ていた和平の枠組が日本の和平条件吊上より挫折したのである。


3 第一次近衛声明の発表
 北支方面軍の主導により、北支占領地域に親日的政権の樹立を画策していたが、南京占領の翌13日、「臨時政府」が成立した。中支にも同様の動きがあった。
 国民政府は、吊り上げられた21日の和平条件に対して、回答を引き延ばしていた。
 国内では、抗日政権の徹底的膺懲によって根本問題を図ると云う強硬派と寛大な和平条件で戦局を終結するとの宥和論があった。強硬論が陸軍省はじめ国内でも強く、参謀本部の宥和論は少数勢力となっていた。
 翌1938(S13)年1月11日の御前会議で、「中国政府が1月21日の和平条件(吊り上げられた条件)に『乗ってこない場合、以後これを相手とする事変解決に期待をかけず。・・』との根本方針を決定した。
 最終期限の15日にも回答は届かず、連絡会議で、陸海の両統帥部は待つよう主張したが、陸・海相は交渉打ち切りを強く主張した。内閣の崩壊を憂慮した参謀本部は、『不同意であるが敢えて反対しない』と表明した。
 斯くて、翌11日に、有名な第一次近衛声明なるものを発出した。これが「国民政府を対手とせず」と云われるものである。


* 折角の和平条件を吊り上げるとは今から思うと勿体ないか限りだ。不思議なことに統帥部以外の者が強硬意見を吐くケースが多い。また、不同意であるが、敢えて反対しないと云うのは無責任だ。この声明により、支那事変長期化が確定的になったのだ。

(第九十三話 了)