(37) 集団的自衛権とは何か

元自衛官 宇佐静男

 作家の司馬遼太郎は生前、よく次のように語ったという。
「おかしなもんやなあ、大方の日本人にとってはある種の観念の方が現実よりも現実的なんやから」
 昨年の衆議院選挙では、自民党や維新の会などが選挙公約で「集団的自衛権の行使を認める」と主張した。途端に、「日本を『殺し、殺される国』にしていいのか」といった観念的で上滑りの議論が横行した。
「集団的自衛権」について理解しようともせず、固定観念で判断して思考停止してしまうため、議論が一向に深まることはない。司馬氏が語ったように日本人は観念のほうが現実より現実的なようだ。
 某党の機関紙は次のように述べる。
「集団的自衛権の行使とは、日本が外国から侵略や攻撃を受けたときの『自衛』の話ではなく、軍事同盟を結んでいる相手の国が戦争をする時に共同で戦争行為に参加すること」
「無法なアメリカの侵略と武力干渉に日本が共同して参加するという危険な『集団的軍事介入』の道でしかない」
 選挙対策とはいえ、こういう偏向かつ誤った記述は国民を誤誘導することになる。悪のレッテルを貼られた途端、「なぜ集団的自衛権が必要なのか」「どんな問題があるのか」といった根本的な議論は消え、冷静で成熟した防衛論議は行われなくなる。
「戦争がしたい」「戦争に参加したい」なんて思っている日本人はいない。「集団的自衛権」が選挙公約に出てくるということは、何か問題があるからである。
 そもそも「集団的自衛権」とは何か。国連憲章にその法的根拠があり、次のように定義されている。
「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃をされていないのにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」
 国連憲章 51 条には次のようにある。
「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」
 国際連合は、第二次世界大戦を防ぐことができなかった国際連盟の反省を踏まえて設立された。国連憲章では、国際の平和及び安全の維持に関する責任を安全保障理事会(安保理)に負わせている。
 ある国家が侵略など重大な国際法違反を犯した場合、安保理が「必要な措置をとる(国連軍による強制行動)」ことを想定している。しかしながら、強制行動には安保理による事前決議が必要であり、時間がかかる。しかも常任理事国の一国でも反対すれば認められないという拒否権制度がある。この拒否権発動によって強制行動が採れなくなる事態も予想される。
 このため安保理の許可がなくても、自国は自国で守る個別的自衛権、あるいは共同防衛で守る集団的自衛権が行使できるよう国連憲章に明記された。
 米ソ冷戦下、安保理の拒否権に阻まれて国連軍の規定は発動されなかった。
 唯一、国連軍による強制行動が実施されたのは朝鮮戦争のみである。
 我が国は主権国家である以上、国際法上認められている集団的自衛権を保有している。だが、集団的自衛権を行使することは、憲法上許されないとされてきた。
 そもそも権利を持っているが行使できないというのはおかしくないだろうか。
 もし、「あなたは選挙権を持っています。だが行使できません」と言われたらどうだろう。選挙権はないのと同じである。何故そんなことになったのか。
 実は憲法に原因がある。現行憲法にはどこにも自衛権の規定はない。制定当時、占領軍の方針は、日本が将来、二度と米国に歯向かうことがないよう日本を弱体化することだった。この方針に沿って、占領軍が 10 日間で作り上げ、日本に押し付けたのが現行憲法である。
 昭和 20 年 8 月 14 日のニューヨーク・タイムズの論説が当時の雰囲気を表している。
「この化け物(日本)は、一応倒れはしたがまだまだ安心ならない。我々は永遠にかかっても徹底してこの怪物(日本)の牙と骨を抜き去らなくてはならない」
 制定時、現行憲法は再軍備は勿論、自衛権さえ認めていなかった。だが、朝鮮戦争が勃発し、冷戦が激しくなると国際情勢がそういう能天気な理想主義を許さなくなった。
 冷戦の最前線に置かれた日本は、「必要最小限の自衛権」は持ちうると解釈変更し、自衛隊を保有することなった。
 他方、集団的自衛権については、日本には能力もなく、必要性もなかった。
 集団的自衛権は「必要最小限の自衛権」を超えるとの解釈のまま据え置かれても全く支障がなかったわけだ。爾来、日本は国際法上、集団的自衛権を保有するが、憲法上行使できないとの奇妙奇天烈な解釈をとり続けることになる。
 昭和 56 年に出された政府答弁書が公式見解となっている。
「わが国が、国際法上このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然であるが、憲法第九条の下において、許容される自衛権の行使はわが国を防衛するための必要最低限度の範囲にとどめるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。(中略)集団的自衛権の行使が憲法上許されないことによって不利益が生じるというようなものではない」
 昭和 56 年は冷戦の真っ最中であり、日本は米軍の庇護の元、自国を守ることだけ考えておればよかった。このため「集団的自衛権の行使が憲法上許されない」としても、特段「不利益が生じるというようなものではなかった」のだ。
 だが冷戦後、国際情勢は一変し、集団的自衛権の行使ができないことにより国益上数々の不利益が生じるようになった。
 冷戦後、米ソの二極構造は崩れ、世界各地で民族紛争、宗教対立などが噴出し、核やミサイルといった大量破壊兵器の拡散、あるいはテロ、ゲリラの多発といった不安定、不透明、不確実な国際情勢が常態となった。
 こういった国際情勢下、各国が協力し合って国際平和協力活動や人道支援活動などを実施し、国際社会の安定化に努力するようになる。だが、日本は集団的自衛権禁止が足枷となり、国際社会で孤立することになる。
 冷戦直後に勃発した湾岸戦争では、国際社会が結束して多国籍軍を構成し、サダム・フセインの侵略に立ち向かった。だがこの時、日本は汗さえ流さず、金を出して済まそうとした。結果、「小切手外交」「金にしか価値観を持たない国」など汚名を着せられ、国際社会から顰蹙を買った。
 高い授業料を払った末に法改正がなされ、自衛隊が国際平和協力活動に参加できるようになったが、ここでも問題が顕在化する。
 国際平和協力活動は複数の国の軍隊と共同して汗を流す。通常、活動は治安や生活環境の悪いところで実施されることが多い。民間人が活動できないから、自己完結性を有し、自己防衛のできる自衛隊が派遣されるわけだ。
 治安が悪いところでは、テロやゲリラに襲われることもある。自衛隊が襲われた場合、他国の軍隊に助けてもらうことができる。だが、他国の軍隊が襲われた場合、自衛隊はそれを助けることができない。他国の軍隊を助けることは集団的自衛権行使にあたり、禁止されているからだ。
 友人に「私が襲われたら助けてくれ。あなたが襲われても私は助けません」
 と言ったらどうだろう。間違いなく友人関係は破綻する。それと同じことを日本国はやろうとしているのだ。
 幸いなことに、今までこういう事案は発生していない。だが、もし起こったら日本は間違いなく国際社会から糾弾を受けるに違いない。
 ミサイル防衛もそうだ。北朝鮮が昨年 12 月、人工衛星打ち上げと称し、弾道ミサイルを打ち上げた。米国にも届く核ミサイルとなる可能性がある。
 自衛隊は我が国に飛来する弾道ミサイルは迎撃できる。だが、米国に飛来する弾道ミサイルであれば打ち落とすことは禁止されている。集団的自衛権に抵触するからだ。
 幸か不幸か現在の自衛隊はその能力を保有しない。だが将来は技術の進展で可能になるだろう。もし米国に向かう弾道ミサイルを発見し、打ち落とすことができるのにしなかったなら、その時点で日米同盟は崩壊するに違いない。
 この他にも、公海上で海上自衛隊と米海軍が共同訓練している時、米海軍が攻撃された場合でも海上自衛隊は何もできないといった状況にある。
 中国は尖閣諸島のみならず、沖縄まで食指を伸ばそうとしている。北朝鮮は核ミサイル保有目前にある。こんな情勢下、集団的自衛権問題は日本の防衛に大きな足かせとなっている。
 昨年5月に出された米議会報告書も次のように述べている。
「日本の憲法は、より緊密な日米防衛協力への障害となっている。なぜなら、憲法9条の現行の解釈が、日本に『集団的自衛』に関与することを禁じているからだ」
 日米同盟緊密化はアジアの安定には欠かせない。集団的自衛権行使が可能となれば、日米防衛協力が一層進み、「抑止力」がより強化される。アジア・太平洋地域全体の平和と安定に寄与するのは間違いない。
 集団的自衛権行使を認めることは、決して「米国とともに『戦争する国』づくり」でも、「アメリカの手先になる」ことでもない。我が国の防衛そのものなのだ。
 また国際協力活動で自衛隊が汗を流すことは、日本が国際社会で孤立しないために極めて重要である。これを阻害しているのが、集団的自衛権行使の禁止なのである。

宗教法人念法眞教機関紙「鶯乃声」 2013年2月号より転載