(26) 「悪魔の証明」にたじろいではならない

元自衛官 宇佐静男

 先月号の「現代防人考」で、いわゆる「従軍慰安婦問題」をとり上げた。歴史的な事実関係を丁寧に見ると、この問題が捏造されたものであるかが分かる。
 これまで、「政治家も国民も事なかれ主義に逃避し、反論することもなく反射的に頭を下げてきた」罪は重い。このまま放置すれば、事態は「益々エスカレート」し、「日本は何十万という女性を『性奴隷』にした20世紀最大の野蛮国という荒唐無稽なレッテル」まで貼られかねないと警鐘を鳴らした。
 この拙稿は、韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が昨年訪日する前に書いたものだったが、残念ながら予想は当ってしまったようだ。
 12月の日韓首脳会談で李明博(イ・ミョンバク)大統領は、従軍慰安婦問題を集中的に取り上げ、「慰安婦問題だけを強く話し続けた」という。元慰安婦支援団体が在韓日本大使館前に「慰安婦の碑」を建立したことに対し、野田首相は碑の撤去を求めた。だが、これに応ずるどころか、日本の対応如何によっては、第二、第三の碑ができるだろうとまで発言したと言う。
 会談は両首脳が応酬する緊迫した異例の展開となり、会談後の竜安寺見学も予定よりも早く切り上げられ、日韓友好の演出も失敗に終わった。
 朝鮮日報は、日本が元慰安婦の賠償請求権について協議に応じない場合、「韓国政府は国際社会に訴える必要がある」と主張した。
 米国では、在米韓国人が米有力新聞に「従軍慰安婦」に関する対日非難キャンペーンを全面広告で掲載した。その他、来日している韓国人歌手が「従軍慰安婦」非難ポスターを1500枚、日本各地に貼ろうとしたという報道もあった。
 日本政府の事なかれ主義により、捏造の史実が定着した事例はこれに限らない。「南京大虐殺」もそうだ。中国政府は日本軍の南京侵略によって約30万人が虐殺されたと主張している。各地に南京大虐殺記念館を作り、世界中に日本の悪逆非道ぶりを発信している。
 「南京事件」の死者数については様々な説がある。だが、一つ一つの事実を丁寧に見ていけば、「30万人」が如何に荒唐無稽であるかが分かる。
 昭和12年12月13日、日本軍が南京城を陥落させ入城した。当時、南京の人口は約20万だったが、1ヵ月後の1月13日には人口が25万人に増加している。人口増加は、日本軍入城により治安が回復したため、一時的に避難した住民が戻ってきたためという。
 20万しかいない住民を全員虐殺しても30万人には届かない。まして、実際には人口は増えている。大虐殺があったとしたら、1ヶ月もしないうちに、恐怖の地に人々が戻ってくるはずがない。
 当時、約120名の報道陣が南京に滞在していた。だが、1件の虐殺報道も記録されていない。昭和12年から13年にかけて、漢口郊外での記者会見数は、約300回に及ぶ。平均35名の記者が参加しているが、虐殺についての報道は全くない。記録されているのは、殺人事件が26件だけである。
 南京は世田谷とほぼ同じ広さである。もし世田谷区内で30万人の虐殺があったとしたら、至るところ死体だらけで足の踏み場もないだろう。死体を埋葬するのも簡単ではない。片付けるだけで数週間かかるだろう。なのに、全く目撃情報がないのだ。
 南京虐殺記念館では多くの写真を掲示している。これらの写真も、ほとんどが南京ではなく、別のところで撮影された写真であることが最近の研究で明らかになっている。
 これだけの事実を挙げるだけでも、「南京大虐殺30万」が如何に荒唐無稽なプロバガンダに過ぎないかが分かる。
 中国は「外交は血を流さない戦争」と考えている。「心理戦、世論戦、法律戦」の三戦は有力な外交手段だ。相手を弱い立場におけば、その分、外交上、有利に立つ。日本は反論しないばかりか、謝罪するのみである。中国にとって「南京」は日本に頭を下げさせる有効な外交カードなのだ。
 今後も、日本政府の不作為が続けば、韓国の「慰安婦」問題と同様、「南京」問題も益々エスカレートさせるだろう。その動きは既にある。中国政府は、「南京大虐殺記念館」を拡張再オープンしている。ユネスコ世界遺産登録を目指すためだという。中国がEU諸国の「新規国債」を引き受ける条件に、「南京大虐殺記念館」の世界遺産登録を「裏条件」にする可能性も指摘されている。
 捏造の史実が定着した事例をもう一つ挙げよう。「バターン死の行進」もそうだ。昭和17年1月、本間雅晴中将率いる第14軍は、マッカーサー率いる米比軍をバターン半島に追い込み、米比軍は降伏した。
 降伏した7万6千人の敵兵を炎天下100キロも歩かせて多くを死なせたというのが「バターン死の行進」である。本間中将はこの責任を問われ、戦後、処刑された。
 炎天下を強制的に歩かせたと言うが、捕虜収容所に行くのに、トラックも満足にない状況では歩かざるを得なかった。移動速度も1日に約20キロといわれ、苛酷とは言えない。当時、現場にいた日本兵は「オリンピックが終了した後のピクニック気分の行進の様なものであった」と証言している。行進中、近くの海岸で、捕虜たちが海水浴で寛いでいる写真も残っている。
 この行進で、「1200人の米軍人と1万人のフィリピン兵士が虐待と意図的な殺人で命を落とした」という。だが、この数字も連合軍側が戦争裁判で採用した数字であり、検証しようがない。当時、日本軍も含め、米比軍人もマラリヤと食糧不足で等しく弱っていたことは事実である。裁判の証拠で使われた写真も、65年後の平成22年に配信元のAP通信社によって誤りが修正されている。
 強制的とは言うが、捕虜100人から150人に対し、日本軍の監視兵は1人の割合しかいなかった。「逃げようと思えば、いくらでも逃げることができた」というのが実情である。
 「バターン死の行進」の背景には、本間中将を早期に処刑する必要があった。バターン半島の戦いで、7万人の米比軍を指揮するマッカーサーは、半数以下の3万人の日本軍に敗北を喫した。7万人の米比軍将兵を置き去りにして、さっさと豪州に逃げた時の台詞が有名な”I shall return.”である。
 マッカーサーは日本占領後、東京裁判に先行して本間中将をフィリピンで裁いた。自分が敵前逃亡した時の敵将が生きていては、彼の権威に傷がつく。本間中将が日本にいては不都合だった。この処刑理由として作られたのが「バターン死の行進」といわれている。
 本間中将は人格高邁、優れた指揮官であり、多くのフィリピン人からも慕われていた。本間中将はマニラ進駐にあたり将校800名をマニラホテルの前に集め、1時間に渡り「焼くな、犯すな、奪うな」を徹底するよう、そして違反者は厳罰に処すると訓示を行っている。軍司令官の任を解かれて帰国する際は、多くのフィリピン人が総督となって戻ってくることを望んだという。
 戦後、多くの立派な将軍が、戦争犯罪人と仕立てられた。連合国側の心理戦、情報戦だったのだ。敗戦後、日本は連合軍に占領されていた。国民も食うや食わずで、戦争裁判に物申す権限も意欲も失っていた。この不作為が「バターン死の行進」を史実として定着させた。
 「あった」という主張に対し、「なかった」ことを証明するのは非常に難しい。新約聖書でサタンがイエスを試した逸話から「悪魔の証明」といわれる。
 例えば「政府が強制連行に関与した」ことを証明するとしたら、「関与」した政府文書を一枚でも見つければいい。だが、「関与していない」ということの証明は不可能に近い。
 長年にわたる調査の結果、「政府の強制連行」を示す文書は1枚も出ていない。だが、これでも「関与なき」ことの証明にはならないから厄介だ。「悪魔の証明」だからすっきり決着することはない。だから韓国、中国は言いたい放題になる。
 挙証困難なことの証明、つまり「悪魔の証明」を相手に迫ることは、ディベートで勝つテクニックである。相手を弱い立場に追い込むのが、外交で勝つ常道であれば、「悪魔の証明」を迫るのが一番手っ取り早い。今後とも、この有効な外交カードを手放すことは無い。さらに増幅させて日本を弱い立場に追い込もうとするだろう。
 「悪魔の証明」には、一つ一つの事実を積み重ね、毅然として反論し、主張し続けるしかない。下手に謝罪したり、沈黙や事なかれ主義で対応することは、事態を悪化させるだけで、相手の思う壺である。
 こちらが譲れば、向こうも察してくれ、事は収まるだろうと思う日本人の美徳は国際社会では通用しない。生き馬の目を抜くような厳しい国際社会では、相手の立場に関係なく、自己の正当性を主張し続けなければ負けである。
 「南京」も「慰安婦」も同じである。「悪魔の証明」は難しい。だからといって、静かにしていれば「その内収まるだろう」「分かってくれるだろう」といった事なかれ主義は、国益を著しく毀損する。
 「悪魔の証明」にたじろいではならない。諦めることなく、地道に一つ一つの事実を積み重ね、粘り強く状況証拠をもって日本の正当性を国際社会で主張していくしかない。この努力を怠れば、子々孫々にいたるまで日本を貶めることになる。政治の不作為は、国家及び父祖に対する裏切りであることを自覚すべきである。

宗教法人念法眞教機関紙「鶯乃声」 2012年3月号より転載