(20) 国連への幻想を捨てなければならない

元自衛官 宇佐静男

 日本の安全保障政策について「国連、日米同盟のいずれを選択すべき」との議論がある。この議論は二重に国民をミスリードしている。
 先ず、安全保障政策や外交政策には「二者択一」はない。「国連か日米か」「現実主義か理想主義か」あるいは「一国主義か多国主義か」といった選択そのものが間違っている。特に安全保障政策では「○○か××か」ではなく「○○も××も」でなければならず、その中において優先順位をどうつけるかが重要なのだ。
 次に国連は肝心な時に日本を守ってくれるような組織ではないということだ。日本には「国連は正義」であり、国連は困った時に助けてくれるスーパーマンのような存在と幻想を抱いている人が多い。これは大きな間違いである。
 そもそも国連とは、第2次世界大戦の勝利者である「連合国」が、勝利者による勝利者のための平和を守るために創られた機構である。紛争解決などの重要事項は戦勝国たる米国、英国、仏国、中国、ロシアの5つの常任理事国と投票で選ばれる非常任理事国(10カ国、任期2年)からなる安全保障理事会において決定される。厄介なことは常任理事国が拒否権という絶対的な権力を持つことだ。常任理事国の一カ国でも拒否権を行使すると何も決定できない特徴を有するのだ。
 非常任理事国は拒否権を持たないし、任期が決まっている。日本はこれまで10回非常任理事国に選ばれたが、2010年12月からは非常任理事国ですらない。議決権もない安保理事会に日本の命運を委ねるなど狂気の沙汰である。
 日本が危機に陥った時、安全保障理事会がいつも日本に有利な決定を下すとは限らない。また肝心なときに日本を守ってくれるとは限らない。むしろその逆だろう。現在の常任理事国には中国とロシアという日本にとっての直接的軍事脅威が2国も含まれているのだから。もし国連を日米同盟に代わる存在とみなしていたらそれは大きな誤りなのだ。
 国連は、常任理事国5カ国によって事実上支配されている。またアフリカなどの開発途上国は国連から支援金を引き出し、下世話な言葉で言うと「うまい汁を吸っている」のが実情である。日本のような中途半端な国は議決権もなく、金だけ払わされていると言っても過言ではない。日本は国連分担金を12.5%も払っている(2011年)。ちなみに中国は3.2%、ロシアは1.6%しか払っていない。
 国連は加盟各国にとって国益争奪の場であり、国家のエゴと妥協の場に過ぎないのが現実の姿である。「外交は血を流さぬ戦争であり、戦争は血を流す外交である」のは国連という舞台も変わらない。
 そういった実情にもかかわらず、日本では「国連中心主義」「国連主導」といった地に足のつかない美辞麗句、空想的観念的平和論がまかり通る。国際社会で「国連中心主義」なんぞ言おうものならバカにされるだけである。まさに日本の常識は世界の非常識なのだ。
 筆者は何も国連が不要だと主張しているわけではない。国連は、1945年に設立されて以降、国際社会で最も広範な権限と普遍性を有する唯一至上の国際組織である。加盟国は192か国にものぼる。(2011年6月現在)国連を舞台として日本の考えを主張し、各国と協調して日本の国益を追求していくことは極めて重要である。ただ、国連は力もないし、正義でもなく、自国の安全保障を委ねる存在ではないと主張しているのだ。
 日本では昔から「国連は正義」との幻想が定着しているようだ。これは戦後日本の特異性である「平和は平和的手段のみによって追求すべき」「軍は悪」といった考えの裏返しでもある。
 「国連中心主義」を主張するなら、国連憲章が認める集団的自衛権を自衛隊にも認めるかというとそれは拒否する。国連軍への自衛隊参加なぞ、もってのほかと絶叫する。「自主防衛や軍事同盟」を忌み嫌い、軍事の色が薄い国連を賛美すると言う欺瞞に満ち溢れている。「軍を悪者にして精神の平衡を保とうとするのは戦後的な錯誤と欺瞞」とハンチントンが述べる通りである。
 錯誤と欺瞞は別なところにも頭をもたげる。アフガン派遣について国会で議論があった時、文民ならいいが自衛隊はダメだという倒錯した議論が横行した。自衛隊が行くと攻撃されるが、JAICA(文民)なら攻撃されない。「丸腰」は攻撃されないという誤った思い込みが議論を支配している。
 善意の日本人であることは海外では何の命の保障にもならない。2004年4月、イラクで民間人の香田証生さんが拉致・殺害され、2008年8月にはアフガニスタンで非政府組織(NGO)「ペシャワール会」の伊藤和也さんが拉致・殺害されたではないか。
 「国連中心主義」や「国連主導」という言葉にはこういった錯誤と欺瞞に満ちた心理的背景がある。だが、意外とそれを主張する本人自身、気がついていない。民主党の某ベテラン政治家にしてそうである。
 彼は普天間問題に関し、陸、空、海兵隊の米軍は撤退して、第7艦隊だけで充分だとの海兵隊不要論を唱えた。米第7艦隊の守備範囲は西太平洋からアラビア海に及び、日本防衛のためだけでない。状況によっては日本有事の際に、日本近海にいない可能性だってあることを知らない。大政治家にしては安全保障音痴である。安全保障音痴は彼だけの特異なものではなく、日本の政治家に共通した欠陥である。あまりにも勉強不足で短絡的、近視眼的である。
 彼はウエブサイトで次のように述べている。
 「日本が名実ともに国連中心主義を実践することは、日本の自立に不可欠であり、対米カードにもなると思う。われわれは国連活動を率先してやっていく。その姿を国際社会で実際に示せば、アメリカも日本に無理難題を言えなくなる」
 他国も国連中心であるべきと叫ぶが、叫んでいる本人からしてそれが現実でないことは薄々分かっている。もし米国を厄介な存在と見て、国連中心主義で本当に日本を守ることができると思っていたら、驚くべき国際感覚の欠如である。
 安全保障には徹底したリアリズムの追及が必要だ。「国連中心主義」は、国連の実像に対する認識が薄弱であり、リアリズムの欠如を感じると同時に危うさを感じる。こんな指導者に日本の安全保障の舵取りを任せるわけにはいかない。
 国連では日本を守れない。日米同盟なくして日本の防衛は成り立たない。決してこれが独立国のあるべき姿とは思わない。だが、残念ではあるがこれが現実なのだ。
 日本独自で尖閣も日本海も守れない。北朝鮮の核の恫喝にも自力では成す術を持たない。日本は核も攻撃力も持たない。情報分野もほとんど米国頼りである。貿易立国日本の生命線、日本経済の血液ともいえる原油の輸送ルート、シーレーンも事実上、米第7艦隊が守っている。自衛隊の装備もほとんどが米国の軍事技術に依存している。
 専守防衛といった非常識な軍事政策を唱えることができるのも日米同盟があるからだ。米国の軍事的存在に国家の安全を依存するしかないのは悲しいが現実なのだ。これが嫌なら防衛費を増強して自衛隊を強化するしかない。国連は決して日米同盟の代替とはなり得ない。
 国連は驚くほど無力である。スーダンのダルフール地方での大量虐殺さえ阻止できなかった。1972年から200万人の死者を出し、400万人が家を追われ、60万人の難民が発生した。
 1992年から始まったマケドニア駐留の国連予防展開軍の任期延長問題では、マケドニアが台湾と国交樹立したと言う理由で、中国は拒否権を行使した。その結果、マケドニアは再び民族紛争の戦場に戻ってしまった。
 1990年、イラク軍がクエートに侵攻した時も、フセインを説得し、イラク軍を撤退させることはできなかった。
 昨年3月26日、黄海での韓国哨戒艦「天安」撃沈事件が起こった。韓国政府は調査結果に基づき、北朝鮮に責任があると国連に提起した。だが中国が慎重姿勢を崩さず「強力な制裁決議」には程遠く、「北朝鮮の犯行」さえ特定できなかった。
 国連のこんな実情を目の当たりにして、なお「国連活動を率先してやっていく」ことで日本の安全を保てると本当に思っているのだろうか。
 憲法9条がある限り、日本の防衛は日米同盟に頼るしかない。これが嫌なら憲法を改正して自衛軍を持つことだ。これが現実である現時点では、安全保障政策に「国連か日米安保か」という選択肢はない。国連と日米同盟の考え方が違ったら、間違いなく「日米同盟」を選択しなければならない。国連は決して正義ではないし、国連への「幻想」「国連信仰」をいい加減に捨てなければならないのだ。

宗教法人念法眞教機関紙「鶯乃声」 2011年8月号より転載