(13) 「偽善的な戦後教育からの脱却を」

元自衛官 宇佐静男

 二十数年前、米国に留学した時のことである。当時、息子は四歳であったが良い経験になるだろうと思い米国の幼稚園に入園させた。もちろん英語は全くできなかった。その息子が最初に覚えてきた英語は、米国国旗に忠誠を誓う宣誓の文言だった。
 米国の幼稚園では毎朝国旗掲揚が行われ、国旗に対し園児全員に忠誠を誓わせる。毎日交代で一人の園児が宣誓の文言を代表して朗読するわけだ。
 「最大の国防はよく教育された市民である」と第三代米国大統領トーマス・ジェファーソンは述べているが、これが米国の強さなのだと改めて感心したのを覚えている。
 留学を終え帰国した後、日教組の教育研究集会の新聞記事を読んで驚いた。ある教師が「子供達が自主的に挨拶をしたいな思ったら、挨拶を教えます」と述べていた。「何とバカな」と憤りを覚えると共に、米国の学校教育との落差に愕然とした。
 善悪の分別がつかない子供達に自主性を求めるなんぞ、自主性尊重という美名に隠れた教育の放棄である。自主性といえば一見もっともらしい。だが子供達に必要なことは、米国教育に見られるように先ずは当たり前のことを強制してやらせることなのである。
 挨拶などに理屈はない。挨拶が大切かそうでないかを子供に判断させる必要はない。先ずは強制的に挨拶させることである。挨拶をすることにより自然に礼儀を覚え、人に対する思いやりを体得する。そして挨拶や礼儀は結局、人の為に、人に迷惑をかけず、更にできたら人の為になるよう所作することだと自覚するようになる。実行によって挨拶の大切さを体得させるのが教育なのだ。
 この教師の発言は戦後教育を象徴している。子供の人権尊重といえば誰も反論できない。だが人権を尊重して挨拶を子供の自主性に任せるのは偽善である。偽善を押し付け、善悪の分別がつかない子供達に判断を丸投げする。結局、子供達は挨拶を教えられることもなく、挨拶の重要性を体得することもできず、挨拶すらできない大人へと育つ。まさに人権無視の教育なのだ。最近、挨拶もできず人間関係に馴染めず、社会に出て鬱病になる若者が増えているという。「引きこもり」やニート、フリーターが三百万人にも上る。まさに戦後教育の犠牲者なのだ。
 報道によると教育現場も酷い状態だという。学校から秩序が消え、授業が成り立たない「学級崩壊」現象は全体の20%にも及ぶという。生徒が荒れ、先生に暴力を振るったりするのは、自主性尊重、個人優先、人権尊重といった戦後教育の負の成果である。
 卒業式の季節がくると、日の丸掲揚について賑やかな話題になるが、こんな国は日本だけである。諸外国では卒業式に限らず、儀式で国旗が登場しない国はない。この10月、チリで起きた炭鉱落盤事故で奇跡の救出劇が放映された時、チリ国旗を片手に、国民が一つになって喜び合っていた。海外ではこれが普通である。だが日本では晴れの卒業式でも教師が日の丸に背を向け国家斉唱を拒否したりする。
 日本の戦後教育は、国家は悪であり敵対する存在とする偏ったイデオロギー色の強い教育がなされてきた。国家や権威を否定し、「個」や「私」を何より優先させた。思想、信条を押し付けてはならないとの美名のもと、教育現場で国旗、国歌を否定し続けてきた。海外で生活したことのある人なら、日本の教育の異常さが良くわかるはずだ。
 人は所属する組織や団体に帰属意識を持つのが自然である。オリンピックで掲揚される日の丸を見ると自然と目頭が熱くなるのは本能である。
 米国では幼稚園の時から毎朝、国旗を掲揚し、右手を胸に当てて宣誓させる。国を思う心を育み、人の為、社会の為、国家の為に尽くすことを教える。だが戦後日本の教育では子供心に芽生える愛国心を否定し、国家は悪であり敵対する存在だとする偏向思想を押し付けた。
 「平和」とは「争わないこと」と教えられ、「個性尊重」は「我ままの尊重」になり下がる。「民主」とは「個人の我ままを認めること」と同義語となり、「国益や公の価値追求」は「平和と民主主義を危うくする」と教えられる。こんな教育は何か変だと、偽善的なものを感じる感受性豊かな頭の良い子供達こそが学校に背を向け教師に反抗する。子供が学校で荒れ、教師に反抗するのは戦後教育に対する反発なのだ。
 筆者がこう断ずることができるのは、35年間の自衛隊での教育経験があるからだ。学校で手が付けられなかった問題児、コンビニの前で「ジベタリアン」であった無気力な若者、引きこもりで親を心配させた者など、どんな若者でも自衛隊に入隊して数ヶ月の新隊員教育を受けると見違えるように変身する。たいていの親は卒業式で息子の変わりように驚き涙を流す。
 自衛官の犯罪は、マスコミは鬼の首を取ったかのように大げさに報道するが、自衛官の犯罪率は日本人の犯罪率の1/10~1/15に過ぎない。イラク派遣でも自衛官の規律正しさ、モラルや士気の高さは諸外国の軍隊から絶賛された。多国籍軍の会合で自衛隊には軍法も軍法会議もないと説明した時、諸外国の将軍は驚愕の声をあげた。「では、何故あんなに高いモラルが保てるのか」と。イラク派遣を通じ筆者は自衛隊の教育は間違っていないと確信できた。
 自衛隊の教育は何が違うのか。一言で言うと「戦後教育」の否定である。「国家」や「公」は「個」、「私」より優先し、「事に臨んでは危険を顧みず」国家や国民に奉仕することが最も尊い行為であることを徹底して教育する。自らを犠牲にしても他人を救うという行為が如何に崇高であるかを体得させる。
 日常生活では分刻みの規則正しい生活をさせ、「早寝、早起き、朝ごはん」を実践させる。毎朝、国旗掲揚で「君が代」を聞き、国旗に対し威儀を正し敬意を表することを身に付けさせる。頭髪や服装容儀を常に端正にさせ、職場環境は整理整頓、清掃を徹底する。時間厳守を指導し、挨拶、上官に対する敬礼、礼儀、節度ある挙措動作などを指導する。
 自衛隊の教育は、軍事訓練を除けば諸外国の学校で実施している人間教育と同じである。英国で元貴族階級の子弟達が行く寄宿舎でのエリート教育そのものである。要は躾やマナーなど普遍的な人間教育を強制し、有無を言わせずやらせるのだ。
 教育は強制から始まる。とにかく、繰り返しやらせる。最初は夢中でその意義など分からないが、やっている内にその強制される所作に潜む意義、重要性、有益さに目覚める。人に迷惑をかけないことから始まり、人に尽くす喜びを覚える。「利他」の精神の崇高さを自覚したとき、人は真の紳士、淑女に変身する。災害派遣に出動した自衛官の目つきを見れば分かる。真剣な眼差しに人に尽くす喜び、満足感が満ち溢れている。
 摂氏五十度にも上る炎天下の砂漠で黙々と任務に邁進するイラク派遣隊員を見たとき、彼らに武士道のDNAが受け継がれているのを見た思いがした。日本人はもともと武士道のDNAを持っている。だが戦後教育がこのDNAを毀損し埋没させてきた。だが武士道のDNAは教育によって萌芽させうる。自衛隊の教育はそれを実証してきたのだ。
 強制は苦痛を伴うものだ。だが苦痛に耐えてこそ忍耐力がつき、人間として大きく成長する土台ができる。「幼き頃、肉体的苦痛を味わったことのない子供は、成長して必ず不幸な人間になる」とコンラッド・ローレンツ(オーストリアの動物学者)も言っている。
 現代日本の惨状は戦後教育の負の成果である。福沢諭吉は語る。「政治上の失策の影響は大きいが、それに気づいて改めれば鏡面の曇りをぬぐうのと同じで傷跡は残らない。しかし教育の場合はアヘンのように全身に毒が回って表面に現れるまでは歳月を要し、回復には幾多の歳月を要する」
 戦後教育の誤りを認め、一日も早く教育を是正しなければならない。先ずは教育は強制から始まる。日本の再生は偽善を排除した教育の再生なくして叶わないのだ。

宗教法人念法眞教機関紙「鶯乃声」 2010年12月号より転載