(12) 賞味期限が切れた現行憲法

元自衛官 宇佐静男

 親友のA君とB君が近所に住んでいた。ある日、A君の家に強盗が入って、B君に助けを求めたところ、B君はすぐに駆けつけてくれ、強盗撃退に力を貸してくれた。数日後、今度はB君の家に強盗が押し入った。B君はA君に助けを求めたところ、A君は「我が家の家訓で、人を助けに行くことは禁止されている」といって断わったとしよう。果たしてA君とB君は今までのような親友関係を維持することができるだろうか。当然、二人の信頼関係は崩壊し、B君はA君に絶交を申し渡すだろう。
 こんな薄情なA君は人間として失格だ、と近所の人も思うだろうし、A君は近所の人から孤立するに違いない。これは架空の話ではない。実は国際的に見て、日本はA君の姿そのものなのである。
 2004年、イラク特措法に基づき、陸上自衛隊がイラクのサマワに駐留して、イラクの復興支援に汗を流した。イラク国内は未だ治安が悪く、自衛隊員は武器を携行し、駐屯地は警備火器で警戒しながらの人道復興支援活動であった。
 この時、サマワの近くにオランダ軍が駐屯していた。オランダ軍との関係は良好であり、緊密に協力しながら活動を実施していた。サマワの日本の宿営地がもしテロリストに襲われたら、オランダ軍は陸自を助けに駆けつけることを明言していた。だが、逆にオランダ軍の宿営地がテロリストに襲われた時、陸自は助けに駆けつけることを禁止されていたのである。これが所謂「駆けつけ警護」問題である。
 幸いにも、テロリストに襲われるようなことはなかったから良かったものの、もしこういう事態が実際に生起していたら、陸自隊員は切歯扼腕しながらも身動きできず、結果的にオランダ軍を見殺しにすることになっていただろう。その時はたぶん、国際社会から日本の身勝手さを非難され、臆病な日本と侮蔑され、国際的な信用は地に落ちたに違いない。
 何故こんな馬鹿なことになっているのか。原因は現行憲法にある。憲法では個別的自衛権は認められているが、集団的自衛権は行使できないとされている。つまり、日本は守ることはできるが、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する」ことはできないとする。また海外に派遣された自衛隊が、共に活動する外国軍が襲われた際に救援に向かうことは、憲法が禁じた海外での武力行使につながりかねないとして「駆け付け警護」は認められていないのである。
 「自分は守っても、他人は守らない」というのは、どのような哲学や宗教も是認することはない。我が身を犠牲にしてでも、人を救うことはあらゆる民族、宗教に共通して最も崇高な行為とされる。
 「己を虚うして他を利するは慈悲の極みなり」と仏僧は述べ、「利他の精神」の尊さを説く。またキリスト教のルターは「自らを守るため剣を帯び、剣に訴えてはならない。しかしながら善を守り、悪を止めるためなら、剣を帯び、剣に訴えてもいいし、またそうすべきである」と述べる。つまり悪から他人を守るためなら武力に訴えてもいい、またそうすべきと主張する。実はこれが米国の外交理念となっているのだ。
 刑法三十六条の「正当防衛」でも「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は罰しない」とある。つまり「他人の権利」を防衛するのは「生存する」という最も基本的な自然権なのである。最近の研究ではチンパンジーでも仲間を守るという。
 「自分しか守らない」というのは、およそ人類史上誰も唱えたことのない身勝手で破廉恥な所業である。だが非常識で破廉恥な憲法解釈が日本の品格を貶めているのが現実である。世界各地で活躍する自衛隊員の手足を縛っているのが実情なのだ。
 冷戦が終了し、日本は1992年のカンボジアPKOを皮切りに国際平和協力活動を地球規模で実施するようになった。現在ハイチでも自衛隊がPKO活動に汗を流している。だが、この非常識な制約はカンボジアPKOから現在のハイチPKOまで何ら改善されていない。これまで幸運にも恵まれ、前述のような状況が生起することはなかったが、いつまでも幸運に期待することはできない。起きてしまったときの国際社会からの非難、侮蔑、悪評など、日本へのダメージの大きさを考えるとき、一刻も早く改善することが求められる。
 良識ある国会議員ならこれが非常識であることは誰でも分かっている。だが、一向に改善されない。文明が衰退するときの最大要因は自己決定能力の喪失だといわれる。分かっていても、痛い目に会わなければ真剣に考えようとしない、また改善できない。日本はまさに自己決定能力が喪失し、衰退への道を転がり落ちているように思えてならない。
 国際協力活動は日本の国際的地位を高め、国際社会において名誉ある地位を占めるために実施するものだ。それが、国際社会から孤立することを防ぎ、我が国の安全保障に役立ち、ひいては国益に繋がる。だが、国際協力活動の結果、国際社会から非難され、侮蔑されるようでは本末転倒である。そうなる可能性がある原因が憲法にあるのなら、もはや憲法が時代に適合していないのである。まさに憲法の賞味期限が切れているのだ。
 「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」と宣言する憲法を守った結果、国際的な非難を浴び、国際社会の信用を失墜して国益を損ねるようでは、憲法の価値がない。憲法は国民を守るためにある。憲法のために国民があるのではない。
 「憲法を守って国が滅ぶなら、あえて憲法を破る」とまでリンカーンは言った。リンカーンやルーズベルトは危機に際しては憲法を無視したことで有名な大統領である。憲法の規定が国益を損ねるのが分かっているのなら、無視するか改正するかだ。時間的余裕があれば無視する必要はない。改正すれば良いのだ。簡単な話なのに、何故これができないか。
 「駆けつけ警護」問題だけではない。今の憲法には至る所に綻びが出ている。北朝鮮がグアムの米軍に向け弾道ミサイルを発射したとしよう。打ったミサイルが日本上空を飛んでも、日本に向けたものでなければ憲法解釈上これを打ち落とせない。その瞬間、日米同盟は事実上消滅するだろう。日米同盟なくして安全保障政策が成り立たない我が国にとって死活的な問題である。憲法を守れば国が守れないなどブラックユーモアでしかない。戦争放棄というが、厳しい現実社会では「日本が戦争を放棄しても、戦争が日本を放棄しない」のである。
 現行憲法が制定された時は国際協力活動もなければ、ミサイル脅威もなかった。北朝鮮はもちろん中国にも核兵器はなかった。つまり制定時には想定されていなかったことが続々生起し、これまでの憲法解釈との間で次々と矛盾が露呈してきた。現行憲法は既に賞味期限が切れているのだ。
 大日本帝国憲法も大正から昭和へ移る頃には完全に賞味期限が切れていた。憲法より国家を大切だと断ずることのできる維新の元勲がこの世を去ると、憲法の欠陥が顕在化して国家を崩壊へと導く統帥権問題などが顕在化したのである。
 これら問題点を分かっていながらズルズルと状況に流され、ついには自らコントロールを失い破綻に至った苦い歴史を経験したのはつい70年前である。賞味期限切れの憲法を後生大事に床の間に飾ったまま、何事も起こらないことを祈るだけで自ら思考を停止し、顕在化する矛盾に対し見ない振りをする。今またあのおなじみのパターンを繰り返そうとしているように思えてならない。
 時代に合わないものは変える、不十分なものは改善する。賞味期限がきたものは取り換える。自らの頭で考え、自ら決定するという当たり前のことができない国家に未来はない。自己決定能力が喪失した民族に繁栄どころか生存は望めないのだ。

宗教法人念法眞教機関紙「鶯乃声」 2010年11月号より転載