(9) 「受益」と「負担」の自覚

元自衛官 宇佐静男

 「普天間移設問題」は8ヶ月にわたる迷走の末、結局、ほぼ現行案に回帰した。「最低でも県外」と散々煽った結果、地元は絶対反対に転じており、また社民党が連立から離脱するなど、この案を実行に移せるのか甚だおぼつかない。8ヶ月間、鳩山総理は軽率な発言で問題を拗らせただけだった。結果的には辞任に追い込まれたが、辞任すれば済むという問題ではなく、その罪は深い。だが一つ功をいえば、次の二つの問題点を浮き彫りにしたことだろう。
 一つは「抑止力」がいかに国民には理解されていないかということ。二つ目は「受益」と「負担」は一体という常識が日本に欠けているということだ。
 鳩山首相は「学べば学ぶほど、抑止力が必要との思いに至った」と述べた。国家の安全を担う総理大臣が何を今更、、、と驚愕を通り越して、背筋に冷たいものを感じたのは筆者だけではあるまい。総理大臣がこのレベルだから、国民の大多数が「抑止力」を理解できてなくても不思議ではない。
 「抑止力」とは相手が何かをやろうとした時、その行為の目的達成が困難であるか、または代償が高く割に合わないことを予見させ、その行為を思い止まらせる力のことを言う。平和を維持するための最も大切な手段である。
 現在、朝鮮半島には日本人拉致や韓国海軍哨戒艦の撃沈等、挑発行動を繰り返し、しかも核武装を公言してミサイル実験を繰り返す独裁国家北朝鮮が存在する。日本の南西はこの21年間に軍事費を約20倍に伸ばし、尖閣諸島などの領有権を主張し、沖ノ鳥島を岩だと言って日本の排他的経済水域を認めない中国がいる。北には北方領土の不法占拠を続け、今なお膨大な数の核兵器を保有し、しかも核の先制使用を明言するロシアがいる。
 三つの核武装国家に囲まれた日本、そして南北朝鮮問題、中台問題を抱える北東アジアにおいて平和を維持するのは並大抵なことではない。「平和を維持することは、戦争に勝つより難しい」といわれるとおりだ。
 戦争か平和かと問われれば、平和が良いにきまっている。だが平和は宣言したり、千羽鶴を折るだけでは実現できない。「戦争が止まるのは両者の武力が均衡したときだけである」という冷徹な現実から眼を背けてはならない。
 中国に台湾武力侵攻を思いとどまらせ、北朝鮮に核の恫喝や挑発行動を止めさせるには、「代償が高く、割に合わないことを予見させる」だけの軍事力の存在が欠かせない。日本にその軍事力はない。軍事力の最大の目的は戦いを抑止することであり、在日米軍こそこの地域の平和を保つ抑止力なのだ。
 沖縄は台湾海峡、朝鮮半島の両者にとって絶妙の位置にある。事が起これば至短時間に軍事力を投入できる要衝である。沖縄に駐留する世界最強の米軍が両者に睨みを利かせることにより、中国や北朝鮮が軍事行動の誘惑に駆られることを思い止まらせ、北東アジアの安定を保っているのだ。
 他方、普天間基地は街の真ん中にあり、住民は危険にさらされ、騒音等の負担も多い。改善は焦眉の急務である。抑止力を維持しつつ、住民の負担を減らすにはどうすればいいのか。これが普天間問題の原点なのだ。負担軽減と抑止力維持はいわば車の両輪であり、いずれが欠けもいけない。二律相反する要求のギリギリの妥協点が現行案だったのである。
 本来なら最初に総理が「抑止力」について理を尽くして説明し、在沖縄米軍の位置づけを国民に理解してもらうべきだった。「抑止力」抜きの負担軽減のみ主張し、散々住民に期待させておきながら、「学べば学ぶほど、抑止力が必要との思いに至った」と述べて現行案に回帰するなんぞ総理のすることではない。日本の安全保障のレベルの低さを全世界に曝け出してしまった。
 二つ目は「受益」と「負担」の問題である。コインに「裏」「表」があるように、また自然界の万物には「陰」「陽」があるように、「受益」には必ず「負担」が付随する。どちらが欠けても世の中は成り立たない。
 平和はただではない。「負担」や「努力」なくして平和は得られない。米軍に日本の安全保障や地域の平和を依存し、その平和を享受しておきながら、米軍も米軍基地も米軍人も負担であるからいらないと真顔で主張する人がいる。極めて無責任な発言だが、無責任と感じない日本の風潮がより問題の深刻さを示す。
 現状では日本は自らを守れないし、日米同盟なくして日本の安全保障政策は成り立たない。米軍基地はいらないとの主張は耳にやさしいが日米同盟を否定するものだ。もし日米同盟を否定するのであれば、他の安全保障政策を示すのが責任ある態度である。こういう人に限って、対案は示さないし、「軍備拡張をして自主防衛を」とは決して言わない。
 「負担」や「対案」に言及せず耳朶に優しいことだけを言う無責任体質は安全保障分野に限らない。「公務員は減らせ」というが、「公共サービス低下はやむを得ない」とは言わない。各種手当て要求するが「増税」については口を噤む。「原子力発電に反対」という人はいるが「エネルギーの1/3は原発だから、日に8時間は停電で我慢しよう」とは決して言わない。「臓器移植に反対」という人は、臓器移植でしか助かる見込みのない患者に「あきらめてください」とまで言ってこそ責任ある人間だ。
 四十数年前、革新都知事が就任した時のことだ。外環道路建設をめぐって住民の反対運動が起こった。戦後平和主義者の代表たる革新都知事は西欧の諺を引用して反対運動に迎合した。「一人でも反対があれば、私は橋をかけない」と。これには続くフレーズがあるのだが、あえて言わなかった。「だから冬でも泳いで渡れ」という「負担」のフレーズだ。「高速道路は作らない。だから交通渋滞が起きても我慢しろ」とまで言ってこそ責任ある人間なのだ。
 十数年前、米国のニューハンプシャー州に行った時、感動したことがある。ニューハンプシャー州は消費税がない。その代わり消防署がないと説明を受けた。「州税なし」という「受益」のために「火事になっても自分で消火しろ」という「負担」を州民投票で決めたと言う。「負担」を覚悟した上での州民の選択。さすがは民主主義の国である。上記事例を比較すると日本の民主主義の未熟さがよく分かる。
 戦後、「個」を重視して「公」を軽視してきた結果、「自由と権利」は主張するが「責任と義務」を蔑ろにする風潮が定着した。自由には責任が、権利には義務が付随するというのは民主主義の最低条件である。この最低条件さえ蔑ろにしている日本の醜悪な姿が普天間騒動で浮き彫りになったのだ。
 昔の日本は、権利の主張は控えめでも、義務は当然のこととし、責任は死をもってでも果たす武士道の国だった。西欧にはノーブレス・オブリージュという言葉がある。高い地位に伴う道徳的、精神的義務を表す言葉だが、日本の場合、高い地位でなくても、一般庶民が責任と義務を果たすのを当たり前の事としていた。今はどうか。
 平和を享受しながら米軍基地はいらないという。成田空港建設に反対した人が恥もなく成田空港を利用する。日頃、日本国を悪し様に言う「反日日本人」が日本国パスポートを持って海外に出かける。日教組活動で有名な先生が自分の子供を私立の学校に入れる。「公立学校は荒れているから」と。800兆円を越す財政赤字はこの無責任体質の象徴なのだ。
 国家の安全保障は国民の一人一人の問題である。「抑止力」は平和を維持する上で最も重要であり、「受益」と「負担」はコインの裏表と同様、切り離せない。この当たり前のことの自覚が今日本人に求められている。

宗教法人念法眞教機関紙「鶯乃声」 2010年8月号より転載