(2) ダチョウの平和

元自衛官 宇佐静男

 25年前、米国に留学した時のことです。米国では一般家庭の主婦でも「国防」について質問すれば、しっかり自分の考えを述べる姿に、鮮烈な印象を受けました。帰国後、日本の主婦に対し、同様に「国防」について質問してみました。返ってきた返事は「反対」の二文字でした。大変失望したことを覚えています。
 最近は北朝鮮の拉致事件、核実験やミサイルの脅威、中国の大軍拡などにより、日本人の意識も徐々に変わってきたようです。しかしながら、依然マスコミを含め大半の日本人は「国防」「戦争」「自衛隊」「軍事」等の言葉を聞くと、条件反射的に「反対」と言って思考を停止してしまいます。一方、「平和」という言葉はやたら使いますが、具体的な政策になると口を閉ざします。
 誰しも「戦争」より「平和」が良いに決まっています。要は如何にしたら「平和」を獲得できるかです。「平和」をいくら宣言しても、千羽鶴をいくら織っても、平和はやって来ません。見たくない戦争や脅威の実態を正面から見つめ、戦争にならぬよう世界各国と一緒に汗を流し、そして時には血を流す覚悟も持たなければ平和は決して獲得できません。平和は得るものではなく、努力して勝ちとるものなのです。
 「汝、平和を欲すれば、戦争を理解せよ」と英国の戦略家リデルハートは言いました。仏国の英雄ドゴールも言っています。「もちろん戦争は悪である。このことを真っ先に認める。しかし戦争は避けて通れないのが社会の法則である。戦争を世界から拒否するというのはユートピアでしかない」と。
 憲法9条を守ってさえいれば、平和が維持できるという人がいます。思考停止の典型です。日本が戦争を放棄しても、戦争が日本を放棄してくれません。それが厳しい国際社会の現実なのです。
 国防とか安全保障とかは本来逆説的なものです。最も懸念される事態にしっかり準備しておけば、結果的にそのような事態は発生しにくくなるのが現実です。それが抑止力であり、平和を獲得する最良の方策です。考えたくないことを考える。最も起こって欲しくないことを考える。これが国防の基本なのです。
 日本は言霊の国と言われています。不吉な事を言うと、それが現実になるから止めようという傾向があります。大東亜戦争敗戦後、「食うに食なく、住むに家なし」の苦しみを味わった国民が「戦争のことを考えなければ平和が続く」と言霊の傾向に拍車をかけたことは無理もありません。しかしながら、それは「火事が怖いから消防車はいらない」、「病気が怖いから医学はいらない」と言うのと同じくらい幼稚で愚かなことです。
 戦後、大学から「軍事」や「戦略」などの講座が消えました。2003年になってようやく某私立大学で「戦略論」の講座が復活したと聞きます。理性を代表する最高学府においてさえ、この状態です。軍事や国防をタブー視することが「平和国家」のあるべき姿とする「空気」が未だに日本を覆っているのです。
 そういう姿勢を諸外国は「オストリッチ・ファッション」といって軽蔑します。オストリッチとはダチョウのことです。ダチョウは危機が迫ると穴に首を突っ込む習性があります。迫り来る怖いものを見ないようにして危機を回避したつもりになるわけです。日本の安全保障政策は、まるで「ダチョウの平和」だと軽蔑する言葉が「オストリッチ・ファッション」なのです。
 米国の庇護の元、国の防衛については思考を停止し、わき目も振らず経済復興に専念できた冷戦時代は言わば神風の吹いた時期でした。冷戦が終わり、これまで抑制されてきた民族紛争、宗教対立、領土やエネルギー問題、核やミサイルの拡散といった問題点が一挙に噴出し、我が国の周辺も俄然きな臭くなってきました。他方、頼みとしていた米国の力は衰退し、以前のように米国任せで安逸をむさぼってはおれなくなりました。頭上に降りかかる火の粉は自らの手で振り払わねばならなくなったのです。
 現在、ソマリア沖で海上自衛隊が日夜、海賊対処に汗を流しています。海上自衛隊の参加を決定する際、同様に愚かで幼稚な議論が国会でありました。
 ソマリア沖、アデン湾周辺を航行するタンカーや貨物船は時折出没する海賊に襲われたりして困っています。この海域は、日本船舶も年間約2千隻が航行するなど、日本の暮らしを支える重要な海上交通路にあたります。国際社会は協力して海賊に対応すべく、軍艦を出して船団を護衛しています。
 日本は海洋国家であり、海運量は世界全体の海運量の16%にもなります。海賊対処は日本の船舶を守るのに必要であるばかりでなく、海路の安全確保に寄与することは海洋国家日本としての国際的な責務でもあります。
 遅ればせながら、今年3月になって日本もようやく海上自衛隊をソマリア沖に派遣しました。海賊対処法案が成立していなかったため、とりあえず現行法の海上警備行動を根拠に派遣しました。しかしながら海上警備行動では、日本の船舶は護れても外国船籍の船は護ることはできません。自分は護っても人は護らない。なんと身勝手な国だと非難されてもしようがありません。
 何故、他国の船も同様に護ることができる海賊対処法案が速やかに成立しなかったのでしょう。法案反対者の言い分はオストリッチ・ファッションの典型でした。「海上保安庁ならいいが自衛隊派遣は反対だ」と主張した政党がありました。海上保安庁はソマリア沖での活動は能力的にできません。にもかかわらず、こう主張して譲らない。軍や自衛隊といった言葉を聞いた途端、思考停止をし、条件反射的に「反対」と叫ぶ「ダチョウの平和」マインドなのです。
 また某議員はこう言って反対しました。「安易な自衛隊の海外派遣の道を開くことになるのではないか。ソマリア沖で自衛隊が武力紛争にまきこまれるのではないか。」もし本気でこう主張しているとしたら、よほど勉強不足か、国際情勢オンチです。たぶん「為にする議論」、反対のための反対なのでしょう。「自衛隊」という文字を見たくないという「ダチョウの平和」なのです。
 もっともらしい主張もありました。「海賊がいない平和な海をもたらすための根源的な対策に努力すべきであり、その意味で海賊行為への対処にとどまらず、海賊発生の原因の一つであるソマリアの混乱や貧困を克服するための努力こそ我が国が行うべきだ。」そのとおりだと思います。でも今ある海賊の危険にどう対処するかについては逃げています。だからといって海賊行為から身を護る努力をしない理由にはならないのです。偽善の仮面をかぶったオストリッチ・ファッションです。
 法案は6月、衆議院での再議決により可決され、現在、自衛隊員達が遠く離れたソマリア沖で尊い汗を流しています。日本船籍のみならず外国船籍も含め、海賊から護るという日本の善意を国民に代わって実行しているのです。マスコミは取り上げませんが、海上自衛隊に護ってもらった船からはお礼の手紙が続々と寄せられています。諸外国からも高い評価を受けています。
 世界第二の経済大国になり、衣食住に困らなくなった今こそ、「戦争のことを考えなければ平和が続く」といった幼稚さ、愚昧さから、そろそろ眼を覚まさねばなりません。我が国を取り巻く国際情勢は日本を待ってくれないのです。
 冷戦直後の1991年、湾岸戦争がありました。クエートを侵略したフセインに対し国際社会が立ち上がったのです。約40カ国が多国籍軍を構成してこれにあたりました。日本はこの対応で130億ドルという大金を払いましたが、汗は流しませんでした。その結果、国際社会から全く評価もされず、逆に「小切手外交」「オストリッチ・ファッション」と非難され世界で孤立しました。失われた90年はこれから始まったのです。同じ過ちを繰り返してはなりません。
 現在、「テロとの戦い」の一環として、インド洋で海上自衛隊が給油支援活動を実施しています。法案が年末期限切れになるのにあわせ、撤収する方向だと聞きます。本当にこれでいいのでしょうか。政府任せにせず、日本人一人一人が真剣に考えなければなりません。
 国の守りとは国民一人一人が真剣に国の行く末を考えることです。古代ギリシャでは国家の運命を我が事のように思うものを「市民」と呼びました。「ダチョウの平和」に陥ることなく、勇気をもって現実を直視し、一人一人が国家の行く末を真剣に考える。そうなれば素晴らしい日本が再び蘇えるに違いありません。

宗教法人念法眞教機関紙「鶯乃声」 2009年12月号より転載