(1) 国家への当事者意識

元自衛官 宇佐静男

日本人はいつからこんなに無責任になってしまったのだろう。2009年度末の国の借金(長期債務残高)は819兆円になるという。日本人、老若男女一人当たり約630万円の借金である。しかも近い将来、返せるめどは立っていない。主要先進国で最悪の状態だ。子や孫の世代に大変なツケを残すことになる。
 にもかかわらず耳ざわりの良い政策だけがマスコミを賑わす。子供手当て、高速道路無料化、高校実質無償化、手当つき職業訓練制度、最低賃金引き上げ、戸別所得補償制度等々。そして耳の痛い消費税等の負担については、口を噤む。
 「受益」については喧しいが、耳に痛い「負担」については責任ある議論は避けようとする。困ったときの「国債」頼り。まるで安きに流される芸能人の覚せい剤中毒と同じ。この調子では借金は膨らむ一方だ。1000兆円突破も時間の問題だろう。
 国民もマスコミも危機意識が感じられない。借金の額があまりに膨大すぎて、思考停止に陥っているのだろうか。それとも国は「打ち出の小槌」との幼稚っぽい幻想を抱いているのだろうか。
 1兆円というお金は、毎日1000万円使っても274年もかかる。1万円札の札束を重ねれば、1兆円は約10キロメートルの長さになる。819兆円を地上に積み上げれば8190キロの高さまで及ぶ。スペースシャトルの軌道が高度約400キロメートルであるから、その20倍の高さになる。気が遠くなるような借金の額である。
 借金はいつかは必ず返さねばならない。「義務」のない「権限」がないように「負担」のない「受益」はありえない。ステージで手品師がマントから鳩を出すようにはいかない。「負担」なくして、いつかは国家財政は破綻する。国家は「打ち出の小槌」ではないのだ。また「受益」に見合った「負担」を人為的になくすそうとしたら、そこには恐ろしい混乱とモラルハザードが待ち構えている。

 松平定信が寛政の改革の一環として発した「棄捐令(きえんれい)」がよい例である。棄捐令は、江戸時代幕府が財政難に陥った旗本・御家人を救済するため、債権者に対し債権放棄・債務繰延べをさせた武士救済法令である。いわば借金帳消し法であり、借り手は借り得であり、貸し手の札差は貸し損になった。
 一時的に旗本・御家人たちは喜んだ。だが以後の借金ができなくなり、すぐに生活に困り果てた。結果的には人心を不安に陥れるなど、多くの弊害をもたらした。棄捐令に対する不平は募り、中には、追剥や盗人になる下級御家人まで現れたという。
 何よりのダメージは旗本・御家人に責任感の喪失というモラルハザードを生んだことだった。以降、旗本・御家人の無責任体質は蔓延り、幕府の権威は失墜、統治能力は衰微、幕府の崩壊へと一気呵成に転落する原因となった。
 最近の風潮は、まさに童話の「アリとキリギリス」だ。このまま耳障りの良いスローガンに惑わされ、「負担」を忘れ、軽薄な狂騒に浸っていると、冬が越せないキリギリスになるのは必定だ。最も恐れることは、日本人の勤勉の伝統や気高い武士道精神が益々、無責任体質に毒され、日本全体がモラルハザードに陥ることだ。やがては雪だるま式に膨れ上がった「負担」が突如として圧し掛かり、右往左往するだけで、国家存亡の危機に陥らないとも限らない。「日本版サブプライム危機」の到来だ。
 こんな日本の末期的症状に治癒の方策はあるのか。それは国家に対する当事者意識の早急な復活だ。敗戦後、吉田ドクトリンによって、一番大切な国家の防衛を米国に委ねてしまった。国家防衛は米国に任せ、日本人は経済復興に専念した。結果として世界有数の経済大国になったが、最も大切なものを失った。国家は国民一人一人の「義務と責任」から成り立っているという当事者意識である。
 日本は元々国家に対する当事者意識の育ちにくい国家だ。日本は「自由」を戦いで勝ち取り、国を造ったという歴史がない。世界一恵まれた国かもしれない。戦後、「配給された自由」を謳歌し、自由に付随する責任、義務については特に意識が希薄になった。吉田ドクトリンがこれに輪をかけた。首相にもならんとする政治家が「日本列島は日本人だけのものではない」と放言する。また、この発言がさしたる政治問題にもならない。日本人の国家意識はやはり溶解しつつあるのかもしれない。
 国家は国民一人一人から構成され、一人一人の「義務と責任」からから成り立っている。自分自身が国家そのものだという事実に戦後日本社会は目を伏せてきた。敗戦トラウマとマルキシズムの影響は大きい。
 戦後60数年、「国家」は「個人」と敵対する存在、対立する概念でとらえる風潮が定着した。国家という存在を擬人化して悪役のように扱っているが、国家という人は何処にもいない。国家はつまりは私たちの同胞、友人、知人のこと、そして自分自身のことである。
 国を背負っているのは我々一人一人だという当事者意識がない限り、国家は「ゆすり、たかり」の対象となり、「打ち出の小槌」との幻想を抱く。その結果が819兆円の借金なのだ。
 「国家の運命を我がことのように思う」人、これが本来の「市民」という意味だと塩野七生氏は言う(「ローマ人の物語」)。他人任せであれば、当然その無責任の因果は自らが、あるいは子や孫が背負う結果となる。因果応報だ。
 国家に対する当事者意識、どうやればこれを復活できるか。最も効果的な方法は国民全員に国家防衛を体験させることだ。中国、北朝鮮、ベトナム、キューバのような社会主義国家はもちろんだが、民主主義国家でもドイツを始め、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、ノルウェー、オーストリア、スイス、ロシア、台湾、韓国、イスラエルなどは徴兵制を維持している。
 数年前、ドイツで徴兵制廃止の議論が起きた。その時、廃止反対派の主張は「廃止した時、ではどこで国民を教育するのか?」だったという。激しい議論の末、徴兵制存続をドイツ国民は選択した。だが徴兵を忌避する選択も残した。徴兵を忌避する国民には、国防教育を義務付け、社会に対する貢献、ボランティア活動を義務付けた。徴兵忌避者に対する国家への当事者意識の育成を制度化したのである。
 現在の日本で徴兵制復活は現実的ではないだろう。「軍」「自衛隊」「国家防衛」といった言葉に条件反射的に反対する国民が未だ多くを占めている。左翼思想に洗脳されたマスコミも強烈な拒否反応を示すだろう。敗戦トラウマによって立つ戦後平和主義がいまだに跋扈している。
 徴兵制の代わりに、人の為、社会の為、国家の為に働いていることを実感できる仕事に、選挙権を得る前の1年間くらい、無料社会奉仕を義務付けることがいいだろう。
 老人介護の現場、ゴミのリサイクル作業、公共場所の清掃や修繕、託児所や老人ホームでの手伝いなどは社会に対する貢献を実感できるだろう。希望者には自衛隊、警察、消防、海上保安庁での現場体験などがあってもいい。大規模災害が発生したときのボランティア活動もこの中に含めればなおさら効果的だ。
 国家への当事者意識の復活。これには無料社会奉仕活動が迂遠のようであるが、最短コースだ。この施策を公式制度化するにはまだまだ時間がかかる。そうかといって手をこまねいてはおられない。とりあえず、できることから始めなければならない。当面は、日本の現状を憂う者同士が自発的に活動を開始し、若者に呼びかけ、参加の輪を広げていくことが必要である。
 社会の為、国家の為になっていること実感したとき、若者の目は澄み、晴れ晴れとした表情となる。そんな若者に引きこもりはいない。過去、自衛隊の災害派遣現場に何度も立ち会った。いつも現場の隊員たちの目は輝いていた。被災者が寝る場所を確保できるまでは、隊員達も決して寝ない。自分たちの野外テントを組み立てようともしない。被災者が食事にありつけるまでは、決して持参した缶詰飯に手を付けようともしない。とにかく我が身を省みず被災者を助けることが最優先なのだ。災害派遣に出動した隊員達はかけがえのない貴重なことを学ぶ。人を助け、人に喜んでもらえることがこんなに幸せなことか。自分がこんなに社会のためになっているか。これを実感したとき、個人と社会、個人と国家が一体化する。国家が一人一人の「義務と責任」で成り立っていることを実感するのだ。
 「人は人に生かされ、人は人のために生きる」のは人間の価値の基軸だ。価値の基軸をしっかり実体験させ、基本的な道理を得させれば、人が帰属する最大単位である国家に対する当事者意識も自然に生まれる。
 国家を背負っているのは我々一人一人だという当事者意識をもった日本人が一人でも多くならない限り、819兆円は膨れ上がり続けるだろう。いつか我々が、あるいは子や孫が塗炭の苦しみを味わうことになる。今、日本人に求められているのは「国家を担っているのは我々だ!」という強烈な当事者意識の復活なのだ。

「立国は公に非ず、私なり。独力の気力なき者は国を思うこと深切ならず。愚民の上に苛き政府あり」

福沢諭吉

宗教法人念法眞教機関紙「鶯乃声」 2009年9月号より転載