(45) 憲法を日本人自身の手に取り戻そう

元自衛官 宇佐静男

 現行憲法は制定から 67 年経過し、一度も改正されずに今日に至っている。国防、安全保障といった国家にとって最も重要なことが規定もされず、武力組織である自衛隊の存在すら記述がない。こういう憲法が、67 年も放置されてきたのは異常といってよい。
 憲法は「国のかたち」を示すものである。この憲法について、国民が思考停止して来た弊害は、いろいろなところで顕在化している。最大の弊害は、自国の問題を自分自身の問題として考えない無責任な風潮が蔓延するようになったことである。その結果、国家の存在は天与のものと信じ、国家を担うのは一人一人の国民だという国家への当事者意識を喪った。「公」を喪失し「私」のみを主張する現在の醜い日本を作った大きな原因がここにある。国民にとって国家とはただの「ゆすりたかり」の対象となり下がってしまったのだ。
 国内外の情勢は大きく変化し、現行憲法は時代に適合できないところが目立つようになった。これまで改正ではなく、無理な解釈変更で乗り切ってきたが、もはや限界に来ていると言っていい。「鶯の声」(平成 22 年 11 月号)の「賞味期限が切れた現行憲法」で指摘したので細部は省略する。だが、何故改正されなかったのだろう。
 現行憲法が GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から押し付けられたものであることは、明らかな史実である。外国軍が占領中に憲法制定を押し付けるのは、明白な国際法違反である。GHQ はたった2週間で現行憲法の素案を作り上げた。その際、日本への不信感から改正要件を高く設定し、簡単には改正できない仕組みを作った。当時策定に携わった関係者は次のように述べている。
「日本はまだ完全な民主主義の運用に慣れる用意がなく、憲法の自由で民主的な規定を逆行させることから守らねばならないと思った」
 当初、「憲法施行後、10 年間は憲法改正を禁ずる」条文や、「改正案は国会議員の3分の2の多数で発議し、国民の4分の3以上の賛成があれば成立」とする案も出された。議論の末、結局は現行の憲法 96 条、つまり「各議員の総議員の3分の2以上の賛成」で国会が発議し、更に国民投票で過半数の賛成を要することで落ち着いた。
 これは世界的に見ても、きわめてハードルの高い憲法改正条項となっている。例えば、同じ敗戦国のドイツでは、両院の定足数(3分の2)の3分の2の賛成で改正ができ、国民投票は不要である。これまで既に 57 回の改正がなされている。
 米国の憲法は 1787 年に制定され、最も古い憲法といわれる。これまでに 18 回改正されている。改正には両院の定足数(過半数)の3分の2の賛成で発議でき、全州の4分の3の議会の承認が必要である。両院は定足数が過半数であり、その3分の2なので実質、総議員の3分の1の賛成で発議は可能である。フランスの場合、両院の過半数で発議でき、国民投票でも過半数の賛成さえあればいい。
 西修駒沢大学名誉教授によると経済協力開発機構(OECD)加盟 34 カ国の内、二院制で国民投票に付さなければならないと規定した国は三カ国(オーストラリア、アイルランド、スイス)のみであり、その三カ国も発議要件は過半数だという。
 日本の場合、国民の過半数が憲法改正に賛成し、衆議院で3分の2以上の国会議員が賛成したとしても、参議院議員の3分の1、つまり 81 名の議員が反対すれば、それだけで憲法改正の発議ができない。
 憲法改正の決定権を有するのは、あくまで主権者である国民であるはずだ。にもかかわらず、国会における改正の発議要件が厳しすぎるため、国民は憲法改正権を事実上行使することができない。現行憲法制定以来、67 年、一度も憲法が改正されなかった大きな理由がここにある。GHQ によって、憲法改正を封じられてきたのだ。
 こういう状態を受け、安倍晋三内閣総理大臣は、この1月、国会で 96 条の先行改正に言及し「戦後の歴史から、日本と云う国を日本国民の手に取り戻す戦いである」と述べた。
 自民党は現行憲法 96 条を改正し、発議要件を衆参両院の「3分の2以上」から「過半数以上」へと緩和すべきだと主張した。
 戦後、メディアを中心とした護憲派によって、憲法改正タブー意識が醸成され、自由な改憲論議が封じられて来た。いつの間にか現行憲法は「不磨の大典」と化した。その結果、国民は思考停止状態となり、大臣が憲法改正を論じただけで首が飛ぶといった異常な時代が続いた。
 憲法は国民のためにあるのであって、憲法のために国民があるのではない。憲法が時代にそぐわないようであれば、国民が自ら考え、自らの手で改正していくのは民主主義国家として当然である。
 国民が主権を直接行使できる唯一の機会は、憲法改正の国民投票への参加だけである。これまで67年間、日本国民の意思が反映される国民投票を一度も経験したことがないというのは、やはり異常としか言いようがない。国民は憲法 96 条によって、主権行使の機会を奪われてきたのである。
 安倍首相は、改正の発議要件を緩和し、国民投票によって国民が主権を行使できるよう、つまり国民の主権行使を取り戻そうと、ようやく一歩を踏み出した。これまでは憲法改正の発議すら、夢のまた夢だったが、少し現実味を帯びてきたと言える。
 だが、安倍首相の発言を受け、またぞろ護憲派が猛烈な反対の狼煙を上げている。
 曰く、「そもそも改正条項の改正は、憲法の拠って経つ立憲主義への反逆である」「憲法は権力を縛るものであり、96 条の改正は権力者が自らの都合の良いように拘束を緩めるものであって、立憲主義に反する」云々。
 憲法改正の決定権を有するのは、あくまで主権者たる国民である。国会の発議要件が厳し過ぎ、国民が憲法改正権を行使できないため、憲法の規定に従って発議要件を緩和しようとすることが、なぜ立憲主義に反するのか。
 また曰く、「時の為政者が自分の都合のいいように憲法を変えるのは間違っている」と。
 国民投票によって最終的に改憲を決めるのは「時の為政者」でなく、「国民」であることを無視した発言であり、全く国民を愚弄している。 またまた曰く、「改憲派の狙いは、憲法9条を変えて海外で戦争する国に日本を作り変えることだ」と。
 自民党草案でも、憲法9条の第一項は変えていない。「国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」のは変わらない。まさに言いがかりとしか言いようのない指摘である。自民党案では、自衛隊の存在を軍隊としてしっかり憲法に明示しようとしているだけなのだ。
 護憲派はこのように、憲法を守りたい余り、自分たちの都合の良いようにレトリックを用いており、論理が既に破綻している。メディアの多くも、オオカミ少年の如く、国民を不安に陥れ、憲法改正タブーを植え付けようと躍起になっているだけである。
 現行憲法では、「権利」や「私」を重んずるあまり、「義務」や「公」を軽んじていることは否めない。だが、権利には義務が伴い、自由には責任が伴うのは民主主義国家として当然の理である。自民党草案では権利と共に義務についても規定している。だが、これについても次のような反対の声がある。
「憲法は国民の権利を守るために国家権力を縛るものだ。憲法が国民に義務を課すのは
おかしい」
 これも明らかに国民をミスリードするものだ。憲法は権力者を縛るのが全てかというとそうでもない。現行憲法でも国民に対して教育や納税などの義務を課している。現行憲法の下、国家は悪、国民は善と思い込まされ、国民の義務は曖昧にされ、国家や社会を顧みることなく権利を何処までも主張できるかのような誤った風潮が蔓延した。
 特に戦後平和主義者たちは、人権は無制約、無際限に主張できるかのような倒錯した考えを主張している。「国際人権規約」は人権を無際限に与えていない。個人は属する社会に対し義務を負うとあり、宗教の自由や表現の自由も「公共の安全、公の秩序、公衆の健康や道徳の保護」のためには必要に応じ、法律で制限できることになっている。
 人権、人権と声高に叫ぶ陣営があるが、国家や権力なくして、国家の平和と独立は維持できないし、国家なくして人権など保障できないのは明らかである。
 発議要件を緩和することによって、政権交代のたびに憲法が改正されてしまうのではと心配する声もある。だが、両院議員総数の過半数の賛成で発議できたとしても、国民投票の過半数の賛成が必要であり、少なくとも法律の改正よりはるかに厳しい。政権交代のたびに憲法がコロコロ変わる様なことはありえない。
 憲法を含め、人間が作ったものに完璧なものはない。時代と共に変えていかねばならない。この世に「不磨の大典」などはあり得ないのだ。67年の年月を経て、現行憲法は既に「賞味期限」が切れてしまっている。今こそ、日本国民の頭で考え、国民の手で時代に適合した「国のかたち」を決めなければならない。
 日本は、このまま賞味期限切れの憲法を抱いて衰退していくのか、それとも自らの手で新しい「国のかたち」を作り上げ、美しい日本を復活させるのか、今が分水嶺なのである。

宗教法人念法眞教機関紙「鶯乃声」 2013年10月号より転載