(52) 集団的自衛権の行使は何故必要なのか

元自衛官 宇佐静男

 5 月 15 日、政府の有識者会議「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」は集団的自衛権の行使を限定的に認めることなどを求めた報告書を安倍首相に提出した。これを受け、首相は記者会見を実施し、集団的自衛権行使の限定容認に向け、憲法解釈の見直しを政府・与党で検討していく考えを表明した。
 朝日、毎日、東京新聞など現行憲法を「不磨の大典」のように考えるメディアは、またぞろ「戦地に国民への道」「行使ありきの危うさ」「最後の歯止め、外すのか」などおどろおどろしいキャンペーンで国民の不安を煽っている。反対派に共通しているのは、集団的自衛権の必要性の有無については不思議なほど言及しないことだ。
 安倍首相が記者会見で二つの事例を例示してその必要性を語った。海外で紛争が起こり、避難しようとする日本人を米国が輸送している時、これが攻撃されても自衛隊は守ることができない。海外で、地域の発展のためにボランティア活動している若者達が突然武装集団に襲われたとしても、同じ地域で活動している自衛隊は彼らを救えない。今の憲法解釈では自衛隊は彼らを見捨てるしかない。これが現実であるが、日本国憲法が「国民の命を守る責任を放棄せよ」と云っているとは、どうしても考えられないと安倍首相は訴えた。
 記者会見に対し、某政党の党首は「国民を脅かして憲法解釈を行おうとしている」切って捨てたが、じゃあどうすべきは述べなかった。こういった事例に対し、代替案を提示しないのは無責任だ。「憲法解釈は絶対変えてはならない。だから、その時は彼らを見捨てるべきだ」とまで言ってようやく責任ある主張である。だが、決してそれは言わない。苦し紛れに「そんな事例は発生しない」と云う輩が出る始末である。
 冷戦時、非武装中立論者に「侵略されたらどうするのですか」と質問したことがある。
 彼らは「その時は主権や自由を失ってもやむを得ません」とは決して言わず、「そんなことは起きません」「外交で解決するのです」と応えた。原発事故前の東京電力もそうだった。
「原発事故は起こりません」と主張し、対策を考えなかった。共通した無責任さである。
 個別的自衛権を拡大すれば対応できると主張する政党もある。だが、これも矛盾している。これまで憲法の認める個別的自衛権では対応できないとしてきた事例である。それを個別的自衛権拡大によって対応可能にするというのは「憲法解釈の変更」そのものである。
「憲法解釈の変更はまかりならぬ」との主張と全く矛盾している。
 個別的自衛権の拡大には別の問題もある。日本が独自に個別的自衛権の拡大を主張すれば、国際法に基づかない各国独自の正義が横行することになりかねないと報告書も述べる。
 その方が危険であり、まさに邪道と言えよう。
 ならば堂々と憲法改正をすべしと開き直るが、これも現実的ではない。現行憲法の規定では、国民の過半数が憲法改正に賛成し、衆議院で3分の2以上の国会議員が賛成したとしても、参議院議員の3分の1、たった 81 名の議員が反対しただけで憲法改正の発議ができない。(拙稿「憲法を日本人自身の手に取り戻そう」2013 年 11 月号参照)現段階ではほとんど不可能であり、今そこにある危機には対応できない。
 このような状況にあって、現実の脅威に対応し、国民の生命、安全を確保するには、現行憲法の枠内で、ぎりぎり可能な解釈を模索するのが妥当である。この結果が報告書の「限定的な集団的自衛権容認」なのである。
 今ある危機を直視しようともせず、「風雪に耐えた」憲法解釈を変えることは不当、あるいは閣議決定による憲法解釈の見直しは「立憲主義からの逸脱」など建前論、法律論に終始するのは現実の脅威から目を逸らすものであり、無責任の謗りは免れない。如何にすれば国民の命と暮らしを守れるかという原点から発想すべきであり、憲法解釈を守って国民の生命が脅かされることがあってはならない。
 憲法解釈の変更は今回が初めてではない。これまで安全保障環境の変動にともない、解釈を変更してきた。憲法制定当時は「自衛権の発動」さえできないとされていた。だが朝鮮戦争が勃発し日本の安全が脅かされるようになり、吉田首相は、独立国である以上「自衛権の存在することは明らか」と解釈を変更し警察予備隊を創設した。まさに 180 度の解釈変更である。この吉田首相の英断により、冷戦を通じて日本の安全と繁栄を確保できたことは既に歴史が認めるところである。
 報告書には遠慮がちに書いているが、今回の憲法解釈見直しの最大の眼目は日米同盟の緊密化であろう。我が国を取り巻く安全保障環境は、一層厳しさを増しており、北朝鮮による核やミサイルの開発、中国の急激な軍拡、力による一方的な現状変更などに対し、我が国は単独では安全を全うできない。安倍首相が記者会見で述べたように「日本の平和と安全は一国では確保」できないのだ。
 安全保障は、何より冷静に「弱さを自覚」しなければならない。日本は核も攻撃力も持たない。情報分野もほとんど米国頼りである。貿易立国日本の生命線であるシーレーンも事実上、米海軍第 7 艦隊に守られている。自衛隊の装備は、ほとんどが米国の軍事技術に依存している。将来どうあるべきかは別の問題として、現状は日米同盟に頼らざるを得ない。
 中国は経済力、軍事力と急速に力をつけてきた。中国は「力の信奉者」である。相手が弱ければ強く出るし、強い相手であれば静かに時を待つ。相手が強いと下手に出、弱みを見せると力をむき出しに強面に出る。日本一国ではひとたまりもない。
 中国が最も避けたいのは、米国と事をかまえることである。米国の関与は、アジアの平和と安定に欠かせない。中国の挑戦的な行動を阻止できるのは米国しかいない。だが、米国でも一国では手に余るのも事実である。
 最大の問題点は米国が国際問題に関心を失いつつあることだ。昨年、オバマ大統領は、米国はもはや「世界の警察官」ではないと述べた。このせいか東シナ海、南シナ海での中国の挑発的行動は激化する一方である。
 中国の高官は「中国にとって最も都合のいい日米同盟は、ここぞという絶妙の瞬間に同盟が機能しないことだ」と語っている。中国に対する最大の抑止は、日米同盟が「絶妙の瞬間」に機能するところを目に見える形で示すことである。
 アジアの平和と安定は米国の国益でもある。だが米国はテロとの戦いによる厭戦気分が蔓延している。また同盟の負担を負いきれぬ財政事情もある。外交に関心を失いつつある米国に対し、中国への関与の意志を持たせることは日本の国益そのものである。そのためには集団的自衛権を認め、日本が米国と負担や役割を分かち合うことが何より必要となる。
 同盟は近すぎると「巻き込まれ」、遠すぎると「捨てられる」という「同盟のジレンマ」がある。60 年安保闘争以来、米国の戦略に「巻き込まれる」ことを如何に避けるかが国会での論議の的だった。だが、今は内向きになる米国を如何に「巻き込む」かという知恵が日本に求められている。
 ゲーツ元国防長官は離任の際、「国防に力を入れる気力も能力もない同盟国を支援するために貴重な資源を割く意欲や忍耐は次第に減退していく」と本音を語った。米国を「巻き込む」には「米国の意欲や忍耐」を減退させない日本の目に見える努力が必要だ。これまでのような全面的な米国の庇護の下にある安全保障はもはや成り立たない。米国との密接な協力の下、日本が積極的に地域の平和と安全に貢献しなければならない。中国の軍事行動を抑止するためには、日本が米国と強力なタッグマッチを組む必要があり、そのためには、集団的自衛権の行使容認が欠かせないのだ。
 報告書が示す例示以外にも、集団的自衛権行使ができなければ「絶妙の瞬間」に日米同盟が機能しなくなる事態は数多い。憲法解釈変更を早急に閣議決定し、多種多様な事態に適切に応じられる法案整備が求められる。年末までに策定が予定されている日米防衛協力の指針(ガイドライン)にこれらを盛り込むことも必要である。
 安全保障に「想定外」があってはならない。現実に起こり得るあらゆる事態に対して、米国と共に切れ目ない対応を可能とする法整備によってこそ、抑止力が高まり、紛争が回避され、戦争に巻き込まれることがなくなる。我々は危機に目を背けてはならない。「平和を欲するなら戦争に備えよ」という古代ローマ帝国の箴言を今こそ思い出すべきである。
 繰り返すが、力の信奉者である中国の軍事行動を抑止し、北朝鮮の核を含む軍事力行使を思いとどまらせるには、日米同盟の緊密化を図り、米国を「巻き込む」ことが欠かせない。「親米」でも「反米」でもない、日本の国益のために米国を活用するという「活米」の知恵が求められている。このため、集団的自衛権行使はどうしても必要だ。集団的自衛権行使を認めることは、決して「米国とともに『戦争する国』造り」でも、「アメリカの手先になる」ことでもない。我が国の防衛そのものなのである。
 安倍内閣は「戦地に国民への道」「戦争をできる国にする」といったネガティブ・キャンペーンに惑わされることなく、速やかに報告書が示す提言を政策として具現化すべきである。

宗教法人念法眞教機関紙「鶯乃声」 2014年6月号より転載