(54) 「憲法9条にノーベル平和賞を」の奇怪さ

元自衛官 宇佐静男

 日本国憲法第9条をノーベル平和賞に推薦した「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会に対し、今年 4 月、ノルウェー・オスロのノーベル委員会から推薦を受理した旨連絡があったという。「憲法 9 条にノーベル平和賞を」実行委員会がノルウェー・ノーベル委員会に当てた申請文は以下のとおり。

「日本国憲法は前文からはじまり 特に第 9 条により徹底した戦争の放棄を定めた国際平和主義の憲法です。特に第 9 条は、戦後、日本国が戦争をできないように日本国政府に歯止めをかける大切な働きをしています。そして、この日本国憲法第 9 条の存在は、日本のみならず、世界平和実現の希望です。しかし、今、この日本国憲法が改憲の危機にさらされています。世界各国に平和憲法を広めるために、どうか、この尊い平和主義の日本国憲法、特に第 9 条を今まで保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください」

 これを見て驚いたのは筆者だけではあるまい。この申請は「護憲」という自らの主張を、ノーベル賞を利用して実現しようとするものである。「ノーベル賞の政治利用」とも言え、ノーベル賞制度そのものを冒涜する可能性がある。多分、それはノルウェー・ノーベル委員会が適切に判断されるであろう。
 それよりもこの申請内容には著しい誤解がある。日本人が如何に「井の中の蛙」であるかを世界に向けて発信しているようなもので恥ずかしい限りである。「戦争放棄」条項は、いまや大多数の国の憲法にうたってあり、決して日本固有の規定ではない。
 ある憲法学者の調査によると、日本国憲法のような戦争放棄をうたった平和憲法条項を盛り込んだ憲法は、既に 99 ヵ国に存在するという。憲法 9 条の規定をあたかも世界の中で唯一の規定だと思い込んでいる日本人が多いが、大きな誤解だ。
 今回の申請を持て囃すメディアも含め、日本人には安全保障に関する基礎的知識が決定的に不足している。ノルウェー・ノーベル委員会は申請されたものは基本的には受理することを通例としているから受理したのだろうが、中身を詳細に調べて、今頃きっと目を白黒させるに違いない。
 日本国憲法第 9 条の淵源は 1928 年に結ばれたパリ不戦条約(ブリアン・ケロッグ条約)にある。第一次世界大戦では戦闘員、民間人、総計約 3700 万人という未曾有の犠牲者を出した。この悲惨な教訓を受け、国際社会で議論が巻き起こった結果、国際紛争を解決する手段として、締約国相互の戦争を放棄することとなり条約が結ばれた。事実上、自衛戦争以外の戦争は違法化されたのだ。
 この条約は、当初は多国間条約で、列強諸国をはじめとする 15 か国が署名したが、その後、ソビエト連邦など 63 か国が署名した。戦争ではない武力行使は否定していないなど不完全な面はあるが、国際連盟加盟国の大多数の賛同が得られたものである。戦勝国の報復ともいえる東京裁判でも、この条約を根拠として日本は裁かれた。
 パリ不戦条約の第 1 条は次の通りである。「締約国は国際紛争解決の為、戦争に訴ふることを非とし、且つ相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、それぞれの人民の名において厳粛に宣言する」
 日本は立憲君主制であるため、「人民の名において」という言葉は受け入れないことを条件に批准した。
 日本国憲法は米国により作成されたことは周知の事実であるが、憲法9条は不戦条約第 1条の文言をモデルにしている。日本国憲法第9条 第 1 項は次の通りである。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
 パリ不戦条約と瓜二つであることが分かる。このような「戦争放棄」の規定を入れた憲法は既に約 100 カ国が採用しており、自民党の憲法改正案も 9 条第一項は基本的には変えていない。「戦争放棄」は日本国憲法の専売特許でも何でもない。ましてノーベル賞に申請するような類のものではないのだ。
 憲法9条の特殊性は「戦争放棄」の第一項ではく、第二項にある。第二項は次のようにある。「 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
 この規定は当初、非武装と解釈されていた。憲法前文にあるように「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」し、一切の軍事組織を保有しないとされていた。吉田首相も当初は国会で「非武装」の解釈を答弁している。
 だが、朝鮮戦争が勃発し、国際環境は激変した。その結果、この第二項の「非武装」規定では、国際情勢に適合できなくなった。そこで政府は憲法解釈を変え、自衛隊を保有することした。まさに「非武装」から「武装」へと 180 度の憲法解釈変更である。今回の集団的自衛権の限定的行使容認のような微修正ではない。現在は「武装」の解釈が定着し、90%以上の国民が自衛隊の存在を認めている。もしノーベル賞の申請が「非武装」を理由にしているなら、現実とは乖離しており、申請理由にはならない。
 ちなみに主要国家で軍事力を持たない国はない。日本も軍隊ではないが自衛隊と云う立派な軍事力を保有する。日本固有と言うことであれば、憲法9条ではなく、憲法に「国家緊急事態条項」が欠落していることだろう。
 現在、世界の常識は「戦争放棄」を憲法に盛り込む一方で、自衛の軍隊を保有する。同時に「国家緊急事態条項」を規定して、緊急事態に対応できるようにしている。自衛隊と云う軍事力を保有しておきながら、「国家緊急事態条項」がないのは欠陥なのであり、憲法9条とは関係がない。
 7 月 1 日、安倍内閣によって集団的自衛権の限定的行使容認が閣議決定されたが、今も、メディアは「戦地に国民への道」「徴兵制につながる」「9条を潰すな」など筋違いなキャンペーンを張っている。このキャンペーンに疑問を持たずデモ行進している人達や今回のノーベル賞を申請した人達に共通するのは、安全保障に関する基礎知識に欠け、独善的な思い込みがあることだ。
 昭和 60 年の日米安全保障条約改定に反対する安保闘争もそうだった。この安保改定は、条約をより平等なものにすると共に、日本の安全をより確かなものにするものであった。
 だが、「日本をアメリカの戦争に巻き込む」のスローガンに煽られた学生や労働者は、30 万人以上という史上空前の抗議デモを動員して国会を囲み、革命前夜のような様相を呈した。
 幸いにも条約改定は、岸首相の強いリーダーシップで成し遂げられた。後の歴史は、このスローガンが全くの誤りだったことを証明している。
 当時、全学連中央執行委員としてゲバ棒を振り回していた西部邁氏(現在評論家)から直接、話を聞いたことがある。驚くことに新安保条約の条文なんか読んだこともなかったと正直に語った。彼にしてそうであるから、その他のデモ参加者も推して知るべしだろう。
 PKO 法案審議の時もそうだった。湾岸戦争で日本だけが汗もかかず、金だけ出し、国際社会から「小切手外交」と顰蹙をかった。政府は、あわてて自衛隊が国際平和協力活動に参加できるよう法整備を始めた。だが、またぞろ「戦争に巻き込まれる」「自衛隊から戦死者をだすな」といったヒステリックなスローガンが飛び交った。法案採決にあたっては牛歩戦術で投票を妨害する政党もあった。
 あれから 20 年以上が経つ。一人の戦死者を出すこともなく、戦争に巻き込まれることもなく、自衛隊は黙々と国際社会に貢献し、世界的にも評価は極めて高い。「戦争に巻き込まれる」といった感情的なスローガンが如何に的外れであったか。既に歴史は証明している。
 安全保障に関する基礎的知識が欠けていると、メディアが作り出すムードに踊らされることになる。メディアは事件が大きくなれば購読量や視聴率が増えるため、出来るだけセンセーショナルに報道しようとする傾向にある。
 メディアは「戦前、国民の意図に反して戦争に引きずられた」と言う。だが、事実は違う。過激なスローガンで国民を煽ったのはメディアである。この反省もなく、今なお国民を煽動する罪は深い。ムードに流されないためには、我々国民が正しい知識を得て、自ら判断するしかない。
 国会周辺では未だに集団的自衛権行使反対を叫ぶデモが行われているようだ。憲法前文には「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とある。自分は助けてもらうが、他国は助けないといった利己主義的な考え方が現行憲法の精神だとはとても思えない。
 また「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」ともある。国際社会が平和や秩序維持のため汗や血を流しているときに、金だけ払って済ます日本がとても「国際社会において、名誉ある地位」を占めることができるとは思わない。国際社会の平和と秩序維持のため、日本が真に貢献できるような憲法を持って初めてノーベル賞を申請できる。我々は先ず、正確な基礎的知識を欠いた「憲法9条にノーベル平和賞を」の奇怪さを恥じねばならないだろう。

宗教法人念法眞教機関紙「鶯乃声」 2014年9月号より転載