(59) 「待ったなし」の集団的自衛権行使の法制化

元自衛官 宇佐静男

 昨年 7 月 1 日、安倍首相は集団的自衛権の限定容認を閣議決定した。閣議決定だけでは自衛隊は動けない。法制化してこそ実効性が生まれる。この通常国会で法案が審議される予定だ。いよいよ安倍政権も正念場を迎える。
 集団的自衛権については、未だ国民に理解されているとは言いがたい。メディアによる偏向したネガティヴ・キャンペーンもあって、閣議決定以降、内閣の支持率は下がった。
 世論調査によると国民の約 30%程度しか理解が得られていないようだ。
 昨年末の総選挙では、アベノミクスを前面に押し出し、与党は大勝した。だが集団的自衛権についてはあえて争点を避けたきらいがある。わが国の周辺情勢は日増しに厳しくなっている。安全保障に待ったはない。政府は集団的自衛権行使の必要性を丁寧に説明し、国民の理解を求めていくことが何より重要である。
 総選挙では、自民党は選挙公約で次のように述べていた。「いかなる事態に対しても国民の命と平和な暮らしを守り抜くため、平時から切れ目のない対応を可能とする安全保障法制を速やかに整備する」
 同じ与党の公明党は「安全保障法制の整備にあたっては、閣議決定を的確に反映した内容となるよう、政府・与党で調整しつつ、国民の命と平和な暮らしを守る法制の検討を進める」としていた。
 他方、野党第一党の民主党は「閣議決定は立憲主義に反するため、撤回を求める。集団的自衛権の行使一般を容認する憲法の解釈変更は許さない」と述べ、政策の進め方、つまり入り口論に終始し、安全保障をどうすべきかについては言及しなかった。入り口論に拘るのは、一旦中身に立ち入れば党内がまとまらない事情があるからだろう。体面にこだわり、現実の厳しい国際情勢から目を背けているようにしか思えない。
 同じ野党でも維新の党はまだ現実的だった。「集団的自衛権は、自国への攻撃か他国への攻撃かを問わず、わが国の存立が脅かされている場合において、現行憲法下で可能な『自衛権』行使のあり方を具体化し、必要な法整備を実施する」と述べている。責任政党の矜持が垣間見られる。今国会では、入り口論で終始するのではなく、何故今、集団的自衛権行使が必要なのか、根本からの議論を期待したい。
 昨今の厳しい安全保障環境にあっては、日本の平和と安全は一国では確保できない。近年の中国の急激な軍拡、力による一方的な現状変更の動きには、隣国日本の命運がかかっている。中国は「力の信奉者」である。経済力、軍事力など、米国に次ぐ力をつけた中国の挑戦的行動を抑止し、紛争を回避するには、米国の力を借りるしかないのが現状だ。
 中国も最強の軍事力を有する米国と事を構えることは避けたいと考えている。だが、今や米国でも一国では手に余るのが実情である。紛争を抑止するには、日米の強力なタッグマッチが必要とされている。問題は米国が国際問題に関心を失いつつあることである。昨年、オバマ大統領は「もはや米国は世界の警察官ではない」と繰り返し述べた。その結果がウクライナ、中東に不安定な状況をもたらした。
 アジアの平和と安定には米国の関与は欠かせない。日本に今問われているのは、内向きになる米国を如何に「巻き込む」かである。メディアが叫ぶように米国に「巻き込まれる」のを懸念することではない。内向き傾向の米国にアジアへの関与を続けさせるには、最小限の集団的自衛権行使を認め、日本が米国と負担や役割を分かち合うことである。
 ゲーツ元国防長官は離任の辞で次のように述べた。「国防に力を入れる気力も能力もない同盟国を支援するために貴重な資源を割く意欲や忍耐は次第に減退していく」米国の力が欠かせない日本にとって、「米国の意欲や忍耐」を減退させない努力が何としても必要である。
 トーケル・パターソン元米国国家安全保障会議部長も次のように述べる。「集団的自衛権を行使できないとして、平和維持の危険な作業を自国領土外では全て多国に押し付けるという日本のあり方では、日米同盟はやがて壊滅の危機に瀕する」「タダメシ、タダ酒を飲むのが家訓」のような今までのやり方では、日米同盟が崩壊するだけでなく、日本は世界で孤立し、安全保障自体が成り立たなくなる。
 現行憲法の範囲内でも、集団的自衛権が行使できる余地があるはずだ。「集団的自衛権」と聞いただけでアレルギー反応を起こして思考停止になるのではなく、今の憲法でどこまでできるかを模索すべきなのだ。
 昨年、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」が出した報告書は次のように述べている。「本懇談会による憲法解釈の整理は、憲法の規定の文理解釈として導き出されるもの」であり、「個別的、集団的を問わず『自衛のため』であれば、武力の行使は禁じられていない」
 維新の党が選挙公約で述べた「集団的自衛権は、自国への攻撃か他国への攻撃かを問わず、わが国の存立が脅かされている場合において、現行憲法下で可能な『自衛権』行使のあり方を具体化し、必要な法整備を実施する」方向性と一致する。これが常識なのだ。
 元防衛大学校校長の五百旗頭真氏も、集団的自衛権は、「正当防衛」と同様、急迫不正の侵害に対し「自己または他人」の権利を守る「自然権」であり、「世界中の国が行使できる当たり前の権利」であると述べる。だからこそ、「聡明な外交的判断をもって慎重に行使すべき」ものであり、原理主義的に「全否定すべきにあらず」なのである。
 米軍が近海で日本防衛の警戒中、中国軍と何らかの摩擦が生じた時を考えてみればいい。
 日本が「集団的自衛権の行使はできない」と知らんぷりだと、米国世論は一気に「日本を守る義理はない」と傾くだろう。日米同盟空文化であり、日本は中国に屈するか、自力で軍拡をするしかないと五百旗頭真氏は警告する。
 米国とは事を構えたくない中国にとって、日米同盟は目の上のたんこぶである。「中国にとって、最良の日米同盟はここぞと云う瞬間に機能しないことだ」と中国高官も語る。昨今、中国はあの手この手を使って日米分断を図ろうとしている。集団的自衛権の法制化が遅れ、あるいは廃案にでもなれば、中国の思う壺だということを日本人は自覚すべきである。集団的自衛権の行使は「米国とともに『戦争する国』造り」でも、「アメリカの手先になる」ことでもない。我が国の防衛そのものであることを政府は国会審議でしっかり説明すべきである。
「風雪に耐えた」憲法解釈を変えることは不当だ、だから反対という主張もおかしい。
 法律や憲法などは、時代の変遷、情勢、環境の変化によって解釈を変えて適合させていかねばならない。これ以上は無理だと言うところまで解釈を情勢にあわせていくべきなのだ。
 今回の限定行使容認は、十分その範囲内にある。過去、自衛隊を合憲と憲法 9 条を解釈変更したのに比べたら、「立憲主義からの逸脱」「憲法の根幹を一内閣の判断で変えるという重大な問題をはらむ」という批判は為にする批判にすぎない。「国民を脅かして憲法解釈を行おうとしている」と非難するなら、せめて代替案を言うべきだろう。「憲法解釈の変更は絶対してはならない。そういう事態が生じたら、国民に犠牲が出てもやむを得ない」とまで言ってようやく責任政党といえる。
 堂々と憲法改正をやって変更すべきと言う人もいる。こういう人に限って、普段「憲法改正反対」と叫んでいる。憲法改正には時間がかかり、今そこにある危機には対応できない。国民の過半数が憲法改正に賛成し、衆議院で3分の2以上の国会議員が賛成したとしても、参議院議員の3分の1、つまりたった81名の議員が反対しただけで憲法改正の発議はできない。日本人の手で改正できないよう、GHQ によって仕組まれた欠陥憲法なのである。「堂々と憲法改正を」という人こそ、「先ずは 96 条を改正して憲法を日本国民のものにしよう」と言うべきだが、決してそれは言わない。全く自己矛盾している。
 マスメディアが流す、偏向したネガティブキャンペーに対しては、国民がそれを見抜かねばならない。秘密保護法案審議を思い出してもらいたい。朝日新聞は「国民の知る権利」が侵されると反対の急先鋒に立った。だが、数年前の「尖閣ビデオ映像流出事件」では、次のように書いている。「外交や防衛、事件捜査などの特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある」「再発防止のため情報管理の態勢を早急に立て直さなければならない」と。秘密保護法案審議時に叫んだ「国民の『知る権利』『報道の自由』を守れ」とはどう繋がるのか。こういう二枚舌に国民は騙されてはならない。
 またぞろメディアは「戦争をしない国から、戦争が出来る国への転換は果たされた」と煽動の声を上げている。NHK までが「抑止力を高めることによって必ずしも戦争を防げるわけではない。むしろ逆と云うこともある」といった国際社会で通用しない論理を公共の電波で垂れ流す始末である。
 日本の今の状況は、外が火事なのに、家中で遊びほうけている子供の状況に等しい。国民が「家宅の人」である国家は必ず亡ぶ。安倍政権には正々堂々の法案審議を求めたい。
 同時に国民一人一人には、審議を見守り、嘘を見破り、自分の頭で考えることが求められる。

宗教法人念法眞教機関紙「鶯乃声」 2015年3月号より転載