外国人にはセンチメントはないようだ


元陸上自衛官 現星槎大学非常勤講師 森 清勇

 筆者が住む横浜線沿いの八王子近郊は、約20年前に区画整理され、新駅もつくられた。幅8メートル前後の川が流れており、両側には桜並木、そして歩道と車道が設置されたが、人も車もほとんど見かけない。
 一方、この道路と直交するように、すぐ近くを国道16号線が走っている。片道一車線でしかないため日常的に渋滞しており、その度に何とかならないものかと思わずにはおれない。両側の歩道も、一人がやっと通れるくらい狭いところもある。
 16号線に口があれば、「おれを〝国道″と呼んでくれるな、そう呼ばれる度にどんなに恥ずかしい思いをしているか分かるかい」という反問が返ってくるような気がしてならない。
 さて本題にかえるが、春さきには川沿いの桜が満開となり、壮観な情景を呈する。この歩道を散歩する日常であった数年前から、ジョギングを楽しんでいる中年の外国人に出合うことがあり、どちらからともなく挨拶を交わすようになった。
 外国人はオーストリア出身でIT関連の仕事をやっているという話である。奥さんはポーランド生まれのオーストラリア人だったという。夫妻は日本在住である。
 3人の子供の一人はオーストラリアに、一人はアイスランドに、一人は主人の本国であるオーストリアに在住しているという。本人を含め、全員がIT関連の仕事で、いまはどこに住んでいても容易に連絡が取れるので、世界のどこに住もうと、離れているという感覚は余りないということである。
 一昨年であったか、孫を連れた子供の家族が親元の日本にやってきて、1週間ばかり楽しんでいると話してくれた。ほとんど行き来しないそうであるが、孫の成長を含め、コンピューターが皆をすぐ近くにいるかのようにつないでくれていたので、違和感はなかったそうである。
 日本人の私からは想像もできない住環境の生活スタイルである。我々にはナショナリストだ、グローバリストだと言ってもなかなか分かりにくい。日本から外に出て生活するなど思いもよらない我々にとっては、頭では、即ち理論的には理解できても、現実感覚が一向に沸いてこない。
 そうした国民性から見ると、外国人は本質的にグローバリストで、どこに住もうと違和感がないのであろう。本国が懐かしくはないですかと聞くと、「そうでもない」というあたり、われわれ日本人のセンチメントとはかなり違っている。
 多くの陸続きの外国人にとっては、友好国か敵対国かなども含め、外国は常に「存在」するものであり、自国との関係で相対的に考慮しなければならないものであろう。
 他方で、日本人には外国の存在がすっぽり消えることもしばしばであり、国際社会の理解に大きな差が出てくるのも、生まれながらの境遇がもたらすものではないだろうか。

(平成29年12月12日)