今こそ特攻隊精神に学び平成維新達成を

日本郷友連盟副会長兼総合研究所長
ミリテック・アナリスト 倉田英世

はじめに
 日本には、世界の他の人種と異なった崇高な精神文化があった。しかし目下の日本は、占領下で受けた「再び立ち上がって連合国に対抗できない国にする」という占領基本政策に基づく、徹底した「洗脳(マインドコントロール)効果」によって、総ての美しい歴史的・精神的遺産を徹底的に破壊させられ、その効果は目下中国を初めとする近隣諸国に引き継がれている。その後遺症として目下の日本人は、知的空洞状態を続けている。
 この間歴史的所産として、国民が体で覚えていた勤勉、協調性、忍耐強さ等の性格に加え、朝鮮戦争の際の特需等の効果が重なって、物質文明を発展させ世界第2位の経済大国にのし上がれた。が、占領下次いで中国、北朝鮮に引き継がれた洗脳の後遺症である文科省と日教組が主導した精神的破壊を目指した教育効果によって、政治、経済、外交等総べて分野において、殺傷・破壊を伴わない敗北を続け、大戦末期以上に精神的に堕落した国家への道を辿っており、再興が難しい状況下に陥っている。しかし、造物主による救いのおかげか、平成24年末の選挙で自民党が大勝し、平成維新遂行の基礎は出来たと感ずる。
 生物誕生以来、動物は優れた種族を将来にわたって生き続けさせるために、能力の高い牡(オス)を選ぶ戦いをするのは、造物主が動物に与えた本能的行動の一端である。しかしその行動には、相手の殺害は伴っていない。この本能的で許される行為を超えて、同じ種族間で殺傷を伴う闘争に発展させ、相手に意志を強要する戦争を起こし続けるのは、万物の霊長だと自負する人類だけである。この情けない戦いは、有史以来の科学技術の進歩に伴って使用する兵器の殺傷力を向上させ、抗争規模を拡大させつつ現代に至っている。
 しかし第2次世界大戦末期に核兵器が開発されて我が国の広島・長崎に投下され、たった2発の核爆弾の爆発で、2つの中堅都市を完全に破壊されるとともに、30万人を超える一般人を殺害され、敗戦を本格化させられた。人類は、この驚異的な殺傷・破壊規模から、今後世界レベルの戦争を起こして大量に核兵器を使ったら、人類はもとより総ての生物、さらには地球の崩壊が可能なことを造物主が人類に警告している。かくて第2次大戦後の67年間に、殺傷・破壊を伴う第3次世界大戦は回避されつつあるが、人類の情けない性が相手の国家・組織を殺傷・破壊する戦争・抗争を、90件を超えて遂行して来ている。
 今や、核兵器はその破壊力故に、新たなスタイルの戦争・抗争をバック・アップする強力な「政治的兵器」としてその存在を誇示し、サイバーを含む洗脳を武器の主体とする、直接的な殺傷破壊を伴わない「ソフトの戦争」を日常的に引き起こさせ、相手国を貶める「第2の奴隷時代」を現出させ初めて折、その最初の犠牲国家として日本が選ばれている。
 世界各国は、この新たな戦争・抗争への対処戦略を確立し実行に移しつつあるが、戦後の占領下で徹底的に洗脳され、遺伝子まで染め上げられた日本人は、目下中国を初めとする近隣諸国が、引き継いだ「洗脳というソフトの脅威」に無自覚のままに侵され続け、崩壊への道をたどりつつも全く認識できない日々を送っている。
 日本は、この人の洗脳及び財産や文化的資源の盗出行為を繰り返す「ソフトの脅威」に侵されながら、対処する術を確立することを忘れたまま、「単なる平穏を平和だと誤認」して恥じずに、国家崩壊への道を突っ走っているのが現況にある。
 筆者は、この危機に対処する手段は、第2次大戦敗戦が目前に迫った危機的な状況下にあった末期に、「将来日本の存続のため」戦争に勝つことを願い、特別攻撃(特攻)隊ともて囃す無謀な国家政策に従って、①「若き命を国に捧げた勇士6千余柱の精神を想起」する。そして②日本人の精神文化の破壊を上塗りされている実態を阻止する。③若き勇士達が願って散華された「日本精神を再興」し、④「平成維新」を断行して日本の将来に向かう精神文化を主体とする発展継続のための礎を国を挙げて築いて欲しいと考える。
 そのために、目下多くの国民が忘れ去ってしまっている①「特攻隊が行なった戦闘の実態」を把握し、②戦後の供養の実態を把握し、③日本再興のために現時点で為すべき、家族、近隣の人々から日本国民全体の精神を統一して平成維新を断行し、世界に生き続け得る日本国家再興の道を考えたい。

1. 特別攻撃(特攻隊)隊の概要
 第2次世界大戦で日本が採用した特別攻撃隊(特攻隊)は、爆弾、爆薬等を搭載した軍用機、高速艇、潜水艇等の各種兵器を、敵の艦船、航空機、戦車等を目標に乗組員が自ら体当たりさせて敵を葬る必死攻撃作戦を敢行した部隊及び兵士の総称であり、海外においては、Tokko(とっこう),又はKamikaze(かみかぜ)という呼び名が通用している。
(1)第2次世界大戦以前の必死攻撃:名称を別にすれば、決死戦法は古くからあった。攻撃を行った兵士個人又は乗組員自らが、世界の東西を問わず勝利のために生命を投げ出す行動が存在した。日本陸軍は、日露戦争において白襷隊と称する決死隊を編成し攻撃させたし、ドイツ空軍は、エルベ特別攻撃隊を組織した例がある。これ等の作戦は、決して生還を期さない任務付与ではなく、決死の覚悟で極めて困難で危険な任務を果たすという意味であった。
 日本海軍では、日露戦争の旅順港閉塞隊、第1次上海事変での爆弾3勇士、真珠湾攻撃の潜行艇部隊等があったが、当時の指揮官は生還収容方策を計画できたときのみ命令して出撃させた。組織的特攻が開始される前も、自発的体当たり、自爆攻撃は行われた。
 細部は省略するとして、多くの勇敢な兵士が、自己の生命を投げ出して、空母を初めとする艦船への体当たり攻撃を繰り返した。このように、組織的な特攻が行われる前にも、戦闘の現場で自発的な必死の攻撃を行なおうとし、また行われた例が残されている。
 第2次大戦間の例として、1943(昭和18)年3月初旬、ラバウル航空隊飛行第11戦隊上登能弘准尉は、B-17爆撃機に機銃全弾命中させたが撃墜できなかったため、体当たり攻撃機の整備を上申したが、中央に届かず実行されなかった。必殺自爆攻撃が行われた例には、1944(昭和19)年4月14日に、アンダマン諸島に向かう陸軍輸送船「松川丸」を護衛中の陸軍飛行第26戦隊石川清雄曹長の一式戦闘機「隼」が、アメリカ潜水艦が発射した魚雷3本を発見、機銃掃射しつつ魚雷に突入し爆破させ戦死した例。同年8月20日アメリカのB-29の八幡空襲に際して迎撃した第12飛行師団零下の第4戦隊の二式複座戦闘機「屠龍」乗員野辺重夫軍曹、高木伝蔵伍長が、ガードル-Cに体当たりを敢行して戦死。さらに同年5月下旬高田勝重飛行第5戦隊長は、ビアク島への敵来襲に際して、独断で4機を率いて敵艦船に自爆攻撃を敢行し、体当たりで駆逐艦級を沈めた記録が残っている。

2.第2次大戦における陸軍
 (1)特攻攻撃の準備:陸軍中央では、1944(昭和19)年初頭から航空特攻の検討を始めた。主として敵艦船への体当たりで、春には機材研究にも着手した。航空本部に特攻反対意見が多かったことから、3月28日に東条英機陸軍大臣が、航空総監兼航空本部長の安田武雄中将を更迭し、後宮淳大将を後任に据えた。かくて時間をおかずに航空関係者の特攻攻撃の必要に関する意見の一致を見た。
 かくして当初、精鋭兵士と機材のよりすぐりにより、一挙に敵の戦意を殺ぐことを祈念し、四式重爆撃機と九七式双発計爆撃機を改修することし、二個部隊の使用準備を進めた。しして軍政の不備を兵の生命で補う特攻部隊編成を上奏した。が、天皇、軍中央の名において正規部隊を持って実行することは相応しくないとして、現場指揮官が臨機に定めた部隊に対する、要員と機材の増加配分によって陸軍大臣以下の決断で行うこととし、同年5月から爆弾桜弾の研究が陸軍第3航空技術研究所で開始された。
 マリアナ沖海戦における敗北で、同年6月25日に元帥会議が行われ、伏見宮博恭王より「陸海軍とも何か特殊な兵器を考えた戦争をしなければならない。戦局がこのように困難になった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用を要するを要す」との発言があった。東條及び嶋田はすでに考案中であると答えた。さらにサイパンの玉砕を受けて、7月7日の会議で参謀本部航空参謀から、「もう特攻攻撃を行う以外にない」と提案された。7月11日に第4航空技術研究所長正木博少将によって、「捨て身戦法による艦船攻撃の考案」が起草され、対艦船特攻要領の研究が開始された。
 そして7月中に鉾田教導飛行師団に、九九式双発爆撃機の特攻隊、浜松教導飛行師団に四式重爆撃の特攻隊の編成内示が下され、8月中旬から両機種の体当たり機への改修が密かに進められた。そして9月28日の大本営陸軍部関係幕僚の会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成し特攻実施に踏み切るべし」という結論が出され、参謀本部から航空本部に航空特攻を実施する大本営指示(命令ではない)が発えられたのであった。
(2)特攻攻撃の開始:陸軍特攻の開始は、鉾田教導飛行師団の「万朶隊」と浜松教導飛行師団の「富嶽隊」が敢行した。通常部隊の編成は、航空本部から電文で命令されるが、命令は天皇が関与されることから、命令電文は送れず、菅原道大航空総監が編成担当者に任務を付与する方法で行われた。万朶隊は、昭和19年10月4日に任務付与され、10月13日に師団長今西六郎中将が航空総監と打ち合わせを行い、まもなく改修された九九式双発軽爆撃機が到着した。10月20日に参謀本部から編成命令が下され、21日に岩本益臣大尉以下167名が決定された。22日総監訓辞、今西師団長の訓示があり、部隊は万朶隊と命名された。
 一方富嶽隊は、浜松教導飛行師団長川上清志少将が編成内示を受け、第1教導飛行母体として編成され、10月24日に特別任務要員として南方に派遣された。同26日に参謀総長代理菅原道大航空総監が臨席の下で出陣式が行われ、富嶽隊と命名された。
 決行は、フィリピンで待機していた両部隊のうち、富嶽隊は11月13日に隊長西尾常三郎少佐以下6名で出撃、米機動部隊に突入して戦死(成果未確認)、万朶隊は11月5日作戦打ち合わせに向かった隊長岩本大尉以下5名が米戦闘機と遭遇して戦死した。その後両隊残留者は、次々出撃するが、第4航空軍の焦りもあって無理な運用が続いた。
(3)特攻攻撃の継続と敗戦:沖縄戦では、陸海軍ともに次々と特攻部隊を編成して出撃させた。同作戦において、1,276名の振武隊を出撃させたが、航空機の故障を理由に帰投した605名を、振武寮(福岡女学院女子寮)に収容し、その存在を秘匿した例もあった。その後特攻隊員の生き残りは、本土決戦のために各地に分散配置された。
 終戦に際して、自分も出撃すると言いつつ特攻を送り出していた菅原道大中将は、部下の鈴木京大佐から、「1機用意しました。お供します。」と言われた。が、「死ぬばかりが責任を果たす事にはならない。生きて後始末をする方がよい。」と言って帰還したという逸話もある。

3.日本海軍の場合
(1)特攻攻撃の準備:
海軍の特攻は、昭和19年に既に一部から声が上がっていた。昭和18年7月頃黒島亀人連合艦隊主席参謀は、モーターボートによる特攻構想を軍令部に語っていたが、第2部長に就任すると、必死必殺戦法の例として戦闘機による体当たりを、8月6日の戦備考査部会議で、さらに8月11日の第3段作戦に応ずる会議において、不敗戦備の確立を主張した。
 18年12月28日の会議で、最初の特攻兵器として人間魚雷が現場部隊から提案された。永野修身軍令部長は却下したが、マーシャル陥落、米のトラック島空襲を受けて、中央は昭和19年2月26日に人間魚雷の試作を命じた。マリアナ作戦の敗北を受けて、先に陸軍の部で述べた6月25日の陸海軍元帥会議を経て、7月1日に大森仙太郎が海軍特攻部長主任が発令され、総べての部署が従うよう要求して任を引き受け、7月10日から組織的特攻(後の回天)部隊が編成された。サイパン失陥後国民からも「必死必殺兵器で皇国を護持せよ」とも声が軍に寄せられた。昭和19年7月21日に嶋田繁太郎軍令部装長より豊田福武連合艦隊司令長官に特殊奇襲(特攻)兵器採用を含んだ大海指431号が発せられた。
(2)特攻の開始:昭和20年10月5日大西瀧次郎中将が、第1艦隊司令長官に内定した。大西は出発前に、米内光政海軍大臣にフィリピンで特攻を行う決意を伝えて承認を得た。及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語ったが、及川は「決して命令はしないよう。指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と承認した。
 10月9日フィリピンに向け出発した大西は、到着まで特攻の必要性を語っており、「単独飛行がやっとの練度の現状では、体当たりしかない」というのが実態であった。前任者の寺岡謹平にも構想を打ち明け、決心を求めたが、彼は寺岡に一任した。10月19日夕刻ナバラカットに到着、201空副長玉井浅一中佐、一航艦隊主席参謀猪口力平中佐等を招集し、体当たり攻撃法を披露した。玉井が人選し海兵出身の関行男を選んだ。10月20日に大西の訓示と部隊名の発表があり、神風特攻隊が編成された。
 初出撃は、10月21日であった。大和隊、敷島隊、朝日隊、山桜隊の計24名が出撃したが、悪天候に阻まれ大和隊長久納好孚中尉だけが未帰還であった。
(3)特攻攻撃の継続と敗戦:かなりの失敗帰還の後、25日敷島隊の関大尉(戦死後中佐)以下6機が、4度目の出撃で米海軍セント・ロー護衛空母を撃沈したのを初め、大和隊4機、朝日隊1機、山桜隊2機、菊水隊2機、若桜隊1機、彗星隊1機等が次々に突入し、護衛空母を含む5隻に損害を与える戦果を挙げた。これを大本営が大々的に発表、関大尉が軍神に祀り上げられた。特攻隊の攻撃を続ける一方で、11月5日に豊田連合艦隊長官は、玄作戦において回天特攻を下令し、11月20日に戦果を挙げ以後繰り返し実行された。
 4月から沖縄周辺に侵攻してきたアメリカ、イギリス、オーストラリアの海軍を中心とした連合国軍艦隊に、特攻隊を編成して「菊水作戦」を発動し、九州、台湾からの攻撃を行った。これに連動して戦艦大和以下の艦艇による水上特攻、回天、震洋体当たり艇等の特攻兵器を大量に投入した。しかし本土作戦のため、第10次菊水作戦を終わって出撃は鈍化、8月11日を岡島志郎中尉以下の2機を最後として終了した。
 8月15日終戦を迎え、第5艦隊司令宇垣纒中将は夕刻彗星43型機に搭乗、列機10機を従え米艦隊に突入戦死。大西瀧次郎中将は、遺書を残して割腹自決した。終戦後も占守島に侵攻してきた米軍及びソ連軍艦隊や輸送船に体当たりする等の戦闘が遂行された実績が残されている。

4. 特攻観音を祀る世田谷観音寺
 さて特攻隊による攻撃ついての実態を把握したのをベースとして、敗戦後の特攻隊員慰霊の実態について検討する。戦局の逼迫を打開するため、第2次世界大戦中に出撃して斃れた陸海軍特攻隊員を慰霊するため、その霊魂は世田谷山観音寺の特攻観音堂に納められ、戦没者総数は6,418柱に上る。この特攻隊員の霊は、戦後占領下での混乱もあり何れの寺院も配所となる事を渋った。そのため東久邇宮殿下の配慮もあり、東京音羽の護国寺が一時的に預かった。その後も続いた混乱のため、海軍の霊は及川古志郎前軍令部総長が、陸軍の霊は川辺正三大将が自宅に預かった。日本独立後の英霊の配所は、先ず昭和27年春に東京音羽の護国寺に正式に寄託され、「特攻平和観音」と命名された。しかし当時も今日と同じような情けない混乱が続いていたため、護国寺への配所を世話していた白蓮社が解散されたため、英霊の安置を続けることに疑念を持つに至った。そのため、再配所先を探したが、事は順調には運ばなかった。
 その間に、「世田谷観音寺」が候補に挙がった。しかし、観音寺初代住職であられた太田睦賢僧正は、経済界から身を起こして一代で当寺院を創設された人であったことから、最初は特攻の英霊を受け入れることを遠慮された。しかし、事が解決されず混乱が続いたことから、昭和28年7月に再配所を引き受けられた。そのことによって、世田谷山観音寺が特攻平和観音の併設場所と決定されて今日の基礎が築かれた。
 その後、初代住職を初め多くの関係者の努力により、昭和31年5月18日に「特攻観音堂が完成」し、特攻戦死者が奉安されたことによって、英霊は悠久の安堵の地を得て今日に至っている。当該寺院に眠る英霊は、表「太平洋戦争中の特別攻撃隊戦死者の全体像」に表示されているように、総計6,418柱に上り、その名簿は観音堂に納められている。
 なお南九州市知覧の「特攻平和会館」は、菅原道太元中将のご意向もあって、九州方面に関係ある英霊の850柱が分割して納められることとなったもので、今日総数は908柱になっているという。今では知覧の方が有名になっていることは喜ばしいことであるが、本院は世田谷山観音寺であり、毎月18日に法要が行なわれていることを再確認し、近隣の国民がこぞって礼拝することが望まれる。

太平洋戦争中の特別攻撃隊戦死者の全体像

陸軍(名) 海軍(名)
航空攻撃 1,355 航空 攻撃 2,548
空挺降下 615 水中(駆潜) 437
会場推進 243 水中(回天) 104
戦車攻撃 水上(浸洋) 1,085
2,244 4,174
合計 6,418
註:特攻観音堂に納められた名簿の総計

 筆者は、若くして命を国に捧げた英霊が6,418柱という、その多さに気付かなかったことを深く反省し申し訳なさを痛感しつつ、目下の日本の難局打開に奉仕する意思を固めた。目下の日本は、特攻隊の兵士が命を捧げた敗戦間際の時期に相当する、国家の将来に亘る存続が懸念される事態を現出するに至っている。尊い青春の命を国に捧げた英霊への報恩のために国民が挙げて、大戦敗戦後の占領下での「日本を2度と立ち上がって連合国に対抗できない国にする」という政策に基づく洗脳継続によって、完全に喪失しさせ続けられている精神的文化の伝統を軽視する実態を恥じ、「小異を捨てて大同」につき「平成維新と名づけたい改革」を実行する時が到来している。
 ここで日本人全体が、真摯に心身共の改革を行って将来に向けた前進しなければ、日本の将来はない時点に生を受けた者として。その達成のために粉骨砕身貢献すべき時点に至っている。現在の事態を改革できなければ「若き青春の命を国家将来の発展を信じて捨てた英霊に合わせる顔が無い」と感じつつ・・・・・前進しなければならないと考えている。

まとめ
 我々現代に生きる者は、第2次大戦の戦況不利になった1994(昭和19)年以降、訓練を積んだ勇士が散って後続を失った事態を受け、やっと操縦できるレベルになった若き生命を賭して敵戦力破砕のため自爆攻撃を行なって散った6,416柱の特攻隊員の、「将来の日本、日本国民のため」を思う精神を引き継ぐ事が喫緊の時代を迎えている。我々は、散華した特攻隊員の意志を継承し、この美しい日本を再興して後世に、その発展継続を引き継ぐべき国民の1人としての自覚の必要を想起し、「我々は皆さんの意思を引き継いで国家を再興させます。安らかにお眠りください」と、忘れ去ったままの義務と、個人主義をねじ曲げてしまっている利己主義から脱却し、胸を張って「国家再興に尽くします」と言える活動を行って、美しい国を再興するために努力しようではありませんか。
 繰り返すが、文明を精神文明と物質文明に分けるとき、徹底して依存している現在の物質文明を捨てて、日本本来の精神文明を再興しなければならない。現在の人類は、地球上における生存継続を可能とする限界に近づいて来ている。この人類社会を、牽引し発展させ続けうるのは日本人・日本国家の精神的文化の継承以外に存在しない。これも繰りかえすが、「平成維新」を断行して世界を牽引しうる精神を再確認するために、先ず一度「世田谷観音寺を訪れて手をあわせ、特攻で散った若い先人の国家・家族を思う意思を、引き継ぎ発展させる活動を緊急に再開しようではありませんか。

   
   訪問先:世田谷山観音寺併設の特攻平和観音参拝、
                               山守 太田賢照僧正
                               住職 太田恵淳和尚
       場所:世田谷区下馬4-9-4
       電話番号 03-3410-8811
       三軒茶屋駅下車昭和女子大方向に出る、
       次いで目黒駅行きバスに乗車し「世田谷観音」下車し、階段を上る。