回想「阪神・淡路大震災」
-ある講話録(20.12.1)から – (第三回)

元海自災害派遣部隊指揮官・呉地方総監
海将 加藤 武彦

10 部下の適性を正しく把握

この260名の人間をどこから出したかと言いますと、神戸沖に泊まっている11隻の輸送艦、護衛艦の乗員を出しました。そうすると、ある艦では殆ど乗員がいなくなってしまい、普段は仕事を命じ監督をしている士官や下士官だけになり、働き手は殆ど陸に揚がってしまっている状況になってしまいました。然し、沖に艦を泊めておいたのでは以後の活動が出来ないので、至急港に入れる必要がありました。阪神基地隊の水中処分隊は湾岸戦争の際に機雷処理をして来た部隊ですが、そこのダイバー達が事前に神戸港の全域に潜り港の状況を調べて呉れました。幸いにも艦が入る水深はある事が判りました。神戸は東西に長くて南北に短い町で、六甲に向かって急傾斜になっています。港は中央突堤から始まり西宮、尼崎まであります。そこに艦を少なくとも一隻ずつ待機させるという方法を執りました。特に中央埠頭、一突、四突というような三宮、神戸の中心に近い所には何としても艦を入れたい、しかも早く。

各艦長が集まり、阪神基地隊から早く港に艦を入れるようにという総監の指示が伝えられました。その時、ある艦長から陸上にいる隊員が帰って来てからにして貰えないかとの発言がありました。

人間が足りない中で艦を着けるという事は、普段の状況でも難しいのに、陸上には、もやい取りの作業員もいない状況では危険過ぎるという意見でした。一時は並み居る艦長達もウッと思ったようです。

その時一人の隊司令が言いました。隊司令というのは例えば、護衛艦にはそれぞれ艦長がおり、2隻・3隻を集めて隊を作る、海上自衛隊では単独行動はありませんので、そこに必ず隊司令がいます。その隊司令が、

「どうしても人員が足りなくて着けられない艦長がいたら手を上げてくれ僕がその艦に行って操艦して着ける」

と言いました。

この隊司令は私より5才年下でしたが、出世は早い方ではなく、どちらかというと遅い方で輝かしい六本木勤務もありませんでした。殆どが海上で艦を操り、たまに陸上に上がっても教官として学校で生徒達を教えるというような現場の人でした。この人がそういう声を掛けてくれたので、艦長達は着岸する勇気を持って呉れました。その隊司令が言うには、

「俺達は何のために普段国民の目の届かない沖で苦しい訓練を続けて来たのか。いざという時に役立てるためだろう、いざという時は今ではないか。ここで出来ないという事は税金の無駄使い、やれて当り前、だから俺が操艦してやる」

という訳です。

本当に有事に役立つ人材と平時に役立つ能吏とは違います。どちらも大事ですが、いざという時に役立つ人材が案外埋もれているのです。平時に世渡りの上手い人と言っては悪いのですが要領がよく、各省庁との調整能力がある人はどんどん階級は上がって行きます。然し、本当に部下を掌握し、本当にやらなくてはならない所に飛び込めるかという事になった時、何処まで行けるかなとの思いはあります。

終戦当時、もう日本の運命が決まってしまうという時に、海軍大臣になられた米内さんという方が居られます。米内さんは必ずしも海軍兵学校の成績が良かった訳ではありません。どちらかというと昼あんどんと言われた方ですが、そのポストにおいて力を発揮されました。

普段から、この男はこのポスト、この女性はこのポストに向くだろう事を良く見ておくようにという指導を現役の偉い方にして頂きたいと思います。

このようにして陸上自衛隊との協同で初動は終わりました。私も17日に部隊を出し、18日に自分の隷下部隊のへリコプターで神戸に飛びました。上から見ると、とてもじゃないが広島県から指揮が出来る状況ではない、もっと現場の近くに行かなければと思い19日に私の幕僚のうち管理部門だけを呉に残し、防衛部門の全部を引き連れて神戸に移りました。崩れかけた阪神基地隊の隊舎の中で、以後45日間マットの上に寝起きしながら指揮を執りました。遠くから部下にお前らやっとけよ、報告だけを受けるぞという事では、災害派遣の活動が上手く行く訳がありません。災害派遣というのは非常に細かい所があり、長田町の何番地のどこがやられているという事が、ある程度心の痛みとして受け止められないと指揮が出来ないので阪神に移りました。この事は、報告の段階を極力少なくするためでもあったのです。

その時に、自衛隊設置法が問題になりました。自衛隊設置法では総監が居場所を移して指揮をするという事については全く触れられておらず、呉地方総監部の所在地は呉にあると書いてあるだけです。総監が神戸に行ってしまうとはどういう事かと、また内局の法務担当から私の幕僚に問合せがあったようです。しかし、

「そんな事を言っていたら救援活動も何も出来ません。報告も二重になる。私の指示も曖昧になる。だから神戸に行くのです。何が悪いのですか」

と若干喧嘩状態でした。

これも一つにはやはり災害派遣部隊の指揮官がここにいるぞという事を神戸に集まっている隊員の一人ひとりにまでに示したかったのです。トップリーダーである総監がそこにいるという事が、求心力となって部隊の結束が生まれる訳です。

読売新開社から、

「今まで阪神基地隊には星2つの旗が揚がっていましたが、今日から3ツ星になりました、総監が来て指揮を取っておられるのですか」

との問合せがありました。

「その通りです」

と答えると、

「よく来てくれました。神戸も大変ですから宜しくお願いします」

というのが読売新聞の応答でした。やはり見ている人は見て呉れているのだという思いでした。

11 給水の確保

災害派遣の初動、第一段階の人命救助は3日目でほぼ終わりました。次に海上自衛隊が力を入れたのは何か、それは水の確保です。艦は大きな水槽を持っており、水は幾らでも運べます。特に輸送艦は海上に於いてオペレーション中の護衛艦などに給油、給水、物資の補給を行う目的で造られた艦なので、相当量の水を運べます。最終的には災害派遣期間中に2万5千トンの水を神戸の皆様に供給しました。この水の確保、ライフラインの確保を第二段階の第一目標にしました。第二目的は陸上自衛隊の支援としましたが、これには色々と言われました。陸上自衛隊を何故そんなに優遇するのか、陸上自衛隊を泊めるのなら、被災された方々が泊まれる場所として艦を解放してはどうかという意見がありました。一見なるほどと思われますが、そうではないと私は考えました。一艦をそのような使い方をしても大きな檻で40世帯、小さな艦なら10世帯が良い所です。そしてお泊めする事によって、その艦は動かせなくなってしまいます。長期間その岸壁に張り付いて被災者が、
「降ります」
と言うまでは、
「出て行って下さい」
とは言えない訳です。そういう事では艦の運航の自由を拘束してしまう事になります。そうではなく、水をどんどん運んでくる事とどちらが大切か、今やるべき事、今やらなければならない事はどちらなのかを考えて私は水を採りました。

各部隊が母港から運んできた水も底を突いて来ました。最初は1日1~2トンしか出なかった水が、多い日は6百トン、1千トンと出ていくようになりました。どうしても水を補給する必要がありますが、母港に帰ったのでは間に合いません、さあどこから調達するかを検討の結果、隣の大阪から貰おうという事になり、私の幕僚が大阪港湾局にお願いを致しました。

ここでちょっと背景を申上げますと神戸もそうでしたが、大阪はもっと極端で、自衛隊よくいらっしゃいましたという大歓迎のグループと、アンチ自衛隊で自衛艦など見るのも嫌だというグループと極端に分かれています。港湾局はどちらかというと自衛隊ノーサンキュウの方です。

それでも港湾局から水を貰わなければならないので電話をした時、そのアンチ自衛隊色の非常に強い港湾局の担当者が次のように答えて呉れました。

「判りました。災害派遣期間中、海上自衛隊の艦船が大阪から積んで行った水について私が全責任を持ちます。使って戴く港は、天保山岸壁と中央埠頭にします。これは大阪で最も良い埠頭です。そこに水道のメーターがありますから給水の開始と終了の数字だけ送って下さい。後の神戸市と兵庫県との処理は全部私がやります」

という返事でした。上司の了解を得てからという事は一切なかったという事です。幕僚に聞きました所、30代半ばの課長補佐か係長レベルの方かと思いますという事でした。

自らの責任において今やるべき事、今やらなければならない事がはっきりと判っておられる方でした。主義思想は違っていても私は人間として尊敬の念をこの若い人に持ちました。

一方こういう事がありました。救援活動がだんだん進んで来ました。中央埠頭におります輸送艦のボイラーを使って、陸上自衛隊が作った風呂で入浴施設を作りました。浴槽もかなり広いものです。陸上自衛隊はそういう物を作るのが非常に上手です。然し、そういう所にお湯を入れておくとすぐに冷めてしまいます。何か良い方法が無いものかという事で、艦の生の蒸気をそのまま送り込んで温度を保つという施設を作りました。多い時には1日600人位の方が利用されました。何日も続いたので延べにしたら大変な人数になります。
そういうものが出来たので東灘区役所に対し、

「陸上自衛隊と海上自衛隊とで中央埠頭に入浴施設を作りました。車は陸上自衛隊が提供しますので、身体の弱い人や施設におられる方などにこういうものが出来たとアナウンスして下さい」

とお願いしました。
その時の区役所の返事は、

「大変有難いお申し出ですが、区役所としてはその広報は致しかねます。風呂に入れる距離にいる方は入れるでしょうが、入れない所に居られる方は利用出来ない。そこに不公平が生じますので、公平を旨とする区役所はそういう事は出来ません。自衛隊が自主の活動としてやられるならどうぞやって下さい」という事でした。

先の大阪港湾局の担当者とこの東灘区の担当者と、どちらが真の公僕でしょうか。どちらが危機発生の際に役立つ人でしょうか。

システムが壊れてしまった、秩序も無い、連絡もままならない中で、全てが揃ってから一歩一歩進んで行きましょうという活動は、災害派遣の時は出来ません。出来る処にリソースを突っ込んで、多少の不公平があってもどんどん進めて点を作る、点を増やしていって線にする、そして面にする。ある程度秩序が出来てきたところで、A避難所は恵まれているがBは恵まれていない、じゃあそこにリソースをどう移そうかというような事は後でやれば良いのです。その計画が出来るまで動かないという事なら一切活動は出来ません。多少の不公平という事は我慢して戴く事です。あの時の神戸は、例えは悪いのですが、人間でいうと瀕死の状態でした。その時に先ず何を最初にすべきなのか、それは人工呼吸であり、心臓マッサージであり、動静脈に血液を流す事です。多少の傷があっても、指が十本なかろうと、それは後から処置出来る問題であって、命をどう保つかという事が判断の基準になります。傷の手当や精神的な手当ては、きめ細かい暖かい気特が必要であり、これはボランティアの方にお願いしたい。

何故か、自衛隊の組織の特性から見て、自己完結力、機動力、人的ソース装備の全てを持っている自衛隊が最もよくその特性を発揮出来るのは、人命救助や瓦礫の撤去のような力仕事です。そういう中で困っている方々に対しての医療手当てや精神的なケアーなどはボランティアの方々の得意とされる援助でしょう。これが反対になったら神戸の町は死んでしまうと思ったのです。

12 陸上自衛隊への支援

或る海上自衛官が、
「私たちも陸上に出てボランティア活動をさせて下さい」
と言って来ましたが、私は
「駄目だ」
と言いました。

これは陸上自衛隊、あれは海上自衛隊、それは航空自衛隊がという問題ではなく、三自衛隊が併せて最大の力を発揮して市民に貢献出来るのは何かを良く考えろという事です。

今でも信じているのですが、神戸の状況があれだけ早く、正確に、整然と復興出来たのは、第一に市民のレベルの高さです。あれがロスアンゼルスで起これば暴動になって、店は闇討ちを食らっているかもしれません。

然し、神戸ではそのような事は一切ありませんでした。市民が良識を持って行動されたという事が一つ。それからやはり1日1万3千人という人間を装備と共に投入出来た陸上自衛隊の存在とその活動が大きな力でした。自衛隊の活動を省いてしまったら、神戸はあんなにうまく立直っていなかったと思います。

私が海上自衛隊員に言ったのは、
「君らが行ってボランティア活動をやるよりも陸上自衛隊員を助けて、その陸上自衛隊負が、明日も元気で救援活動に当たれるようにするのが役目である。外に行ってやりたいという気特は判るが、そうではなくて陸上自衛隊員が全力を出せるようにしてやって欲しい」
という事でした。

陸上自衛隊は大変気の毒でした。到着が遅いと非難ゴウゴウの中、全国から集まって来た訳ですが、そこに来れば良いというのではなく、陸上自衛隊はどこかに根拠地を設けてそこから出て行って活動しなければなりません。従って、展開というものはどうしても必要ですが、その展開の場所がありません。全ての場所が避難所になっているような中、コンクリートの道路の脇に停めている厳寒の車両の陰で仮眠を取っている隊員を沢山見ました。被災されている市民の前で美味しそうに弁当を食べる訳にも行かず、陰でコソコソ食べている。入浴など思いもよりません。テントも毛布も殆どが供出しているという状態の中で、なんとしても陸上自衛隊に活躍して貰うには、陸上自衛隊を収容して入浴させ、食事をさせ、ゆっくりと寝かして明日また活躍して貰う事が絶対必要であると思い、陸上自衛隊員の入浴と宿泊を認めました。延べ1万8千人が泊まって行きました。

陸上自衛隊員が後で次のように言って呉れました。

「艦は本当に有難かった。厳寒の路上で眠るのに比べれば、鉄板の上でもマットが一枚敷いてあれば天国です。曖かいですしね。有難うございました」

さらに海上自衛隊員は陸上自衛隊員に何か役に立ちたいという気持ちで、ドロドロになった服を洗ったり、靴を磨いたり、朝出て行く時にはプレスのきいた作業服を着て現場に行って貰うという事を誰からとなく始めて呉れました。それは、

「俺の分までやってきて下さいよ」
「やってくるよ」

という暗黙の男の友情のようなものだったと思います。

或る日曜日の事ですが、第三特科連隊の或る中隊が色々な施設機材を持って阪神基地隊に来て呉ました。何をしに来て呉れたのかと思ったら

「今日は非番なので、いつも非常にお世話になっているので、少しでもお役に立てばと思って装備を持って復旧作業のお手伝いに来ました」

との事でした。
そして液状化現象でドロドロになっている水を排除したり、その他色々な作業をしたりして呉れました。

それは誰が頼んだ訳でもなく、海上自衛隊員が陸上自衛隊員に、陸上自衛隊員が海上自衛隊員に今何をしなければならないのか、この災害派遣の中で自分のやる事はどの位置にあるのか、何をすべきかという事を自ら把握して行動して呉れた結果だと思います。

(第3回了)