有事に役立つ平時の人的戦力整備の在り方

…敗戦後の苦境を克服して将来軍備の基盤を建設したワイマール政権下のドイツ軍部…

陸上自衛隊幹部学校・元教官 高井三郎

民主党政権の時代を迎えた今、日米安保体制の見直し、防衛費の縮小などが政治の主題になる雰囲気は、まさに平成軍縮に他ならない。
特に戦力の基本を成す人員削減を要求されている陸上自衛隊は、今後、多くの青少年を隊員として採る道が阻まれる恐れがある。

 本拙文は、平時における人的戦力整備の重要性を訴える狙いから、筆者が、既に35年以上も昔の現役時代に考えた提言事項の拡充版である。
その中身は、士官(将校)・下士官の採用・育成及び戦術・技術の開発を中心に、ゼ-クトの軍備政策を展望する。

第1次大戦後のドイツ軍再建の功労者、ハンス・フオン・ゼ-クト将軍の略歴

ドイツの軍人の中では、「戦争論」の著者、クラウゼビッツ、プロイセンに栄光をもたらしたモルトケ、ポーランド進撃とアルデンヌ突破により世界の注目を浴びた電撃戦の主役、グ-デリアン、砂漠の英雄、ロンメルは、日本人に良く知られている。
これに対し、第1次大戦の敗戦により痛手を被ったドイツ軍再建の功労者、ハンス・フオン・ゼ-クト(Hans von Seekt) に関しては、恐らく現役自衛隊幹部の中でも知る向きは少ない。

ちなみに、筆者は、陸上自衛隊幹部候補生学校図書館の旧軍資料で、ゼ-クトの概要を知り、その後、陸上自衛隊幹部学校指揮幕僚課程(CGS)で、その業績を学び、平時軍備の在り方に関する教訓と示唆を得る事ができた。
それはさて置き、ゼ-クトの略歴及び本人在世中のドイツの国情の大要を先ず紹介して、読者各位の理解を容易にする。

・1868年:デンマーク国境寄りのシュレスヴィッヒにて、プロイセン軍の代表的な将 軍の家庭に誕生、ライン川西岸のシュトラ-スブルクの中学校を卒業
・1887年:アレクサンダ-皇帝親衛擲弾兵連隊に在籍し、少尉任官(19歳)
・1899年:参謀本部の参謀職、中尉(31歳)
・1902年:大尉(34歳)
・1909年:少佐(41歳)
・1913年:ベルギー正面の第1軍・第3軍団参謀長
・1914年8月:第1次大戦の開戦、対仏攻勢作戦を経験
・1914~1918年:東部・バルカン戦線の第11軍参謀長等を歴任
・1918年11月11日:ドイツ対連合国休戦協定
・1919年:ベルサイユ平和条約に参謀本部代表として出席、中将 その後、国防省部隊局長(実体は参謀総長)
・1920~1926年:ワイマ-ル政権の国防省陸軍指揮総局長(実体は陸軍総司令官)
・1926年:辞職、退役、上級大将(60歳)
・1930~32年:ドイツ人民党国会議員
・1934~35年:中華民国、国民党政権の軍事顧問
・1936年:死去(70歳)

1*注1:軍人を目指す貴族の子弟が通常、幼年学校(Kadettenschule) に入学した当時、中学校に進んだゼ-クトは異色的であった。
当時の歩兵科及び騎兵科の士官候補生の主力は、幼年学校卒業後、連隊に入隊して教育を受け、少尉に任官した。
中尉になると選ばれた一部が陸軍大学(Kreigsakademie) で参謀教育を受けた。
なお、1871年にプロイセンはドイツ帝国、1918年にドイツ共和国(通称、ワイマ-ル共和国)と改称した。
 *注2:ドイツ軍の正式呼称は、時代とともに変遷を辿っている。
 ・1871-1918:Kaiserliche Armee,帝国陸軍  ・1919-1934:Reichswehr, 国軍
 ・1934-1945:Wehrmacht,国防軍       ・2009現在:Bunteswehr, 連邦軍
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 第1次大戦末期のドイツでは、長期戦による国力の疲弊に伴う内乱騒擾の頻発により、戦争継続が不可能になった。
このため、ウイルヘルム2世が退位してオランダに亡命し、帝政から共和制に移行に講和を提議し、ベルサイユ条約を締結するに至る。

 戦後、ワイマ-ル共和国が14年続いてから、1933年にアドルフ・ヒトラ-主導のナチス(国家社会党)が政権を掌握して、ベルサイユ条約の軍事条項を破棄し、再軍備を宣言した。
その6年後の1939年にドイツ軍によるポーランド進撃を契機に、欧州は、第2次大戦を迎えている。
これまでに、ゼ-クトは、ワイマ-ル国軍建設の最高責任者であり、事後の国防軍への発展の基礎を確立した。

敗戦国ドイツに過酷な制裁と報復:ベルサイユ条約

1914年から4年間にわたる戦いにおいて、ドイツ、オ-ストリア・ハンガリ-、トルコから成る同盟軍は、英、仏、露、米などの連合軍と戦って敗北した。
その中核であるドイツ軍は、善戦健闘し、最強の敵、フランス軍を一兵たりとも領土内に踏み込ませなかった。
しかしながら、戦争の長期化に伴い、国力が消耗して厭戦気分が漲り、軍隊と民衆による反乱が頻発するに及んで、政府は講和を余儀なくされた。

一方、連合国側の勝利の代償も、決して安価とは言えず、人員・兵器資材の損耗はもとより、一般市民の生命財産に及んだ被害も絶大であった。
したがって、彼らは、ドイツの軍国主義こそ、欧州に未曾有の惨害をもたらした元凶と決め付けた。
   
 このため、1919年6月に、パリ近郊のベルサイユ宮殿で締結されたベルサイユ平和条約は、ドイツを再起不能に陥れるため、厳しい制裁を科した。
その賠償額は、約50年前の普仏戦争当時に勝者のプロイセンが敗者のフランスから徴集した金額の30倍に当る1320億金マルクに達し、別に石炭などの現物の提供も要求された。

 その結果、ドイツの経済は破綻して国民生活は窮乏を極め、更には前線から帰国した3百万人を超える復員軍人を含む失業者が路頭に迷っていた。
連合軍は、条約の履行を監視するため、ラインランドに駐留し、1922年から2年間、フランス軍とベルギー軍は、石炭引き渡しの不履行を理由に、ルール工業地帯を一時、占領した。
それに加え、アフリカ・太平洋域の全植民地を手放し、フランス・デンマーク・ポーランド寄りの国境領土を割譲せざるを得なかった。    

2 条約は、ドイツの軍備を治安維持及び国境・沿岸警備の範囲内に抑えるように、厳しい制限を科し、軍用機、戦車、装甲車、高射砲、重砲、潜水艦、毒ガスなどの開発、製造、輸入及び保有を禁じた。
先ず、海軍力の上限は、士官10パ-セントを含む将兵1.5万人、旧式の1万トン級戦艦と6000トン級軽巡洋艦各6隻、同じく800トン級駆逐艦と200トン級魚雷艇各12隻に抑えた。
 陸軍の火器は、軽重機関銃、軽中迫撃砲、77ミリ野砲、105ミリ榴弾砲に制限し、各保有弾数を、約1週間、軽微な戦闘に応える程度にとどめ、例えば105ミリ榴弾砲の場合は、1火器当り僅か800発であった。
条約は、人的戦力にも次のような二重、三重に及ぶ規制を加えた。

●総兵力を10万人以内、その中の士官を4000人以内とする。
●士官、下士官全員を長期勤務制とし、兵の徴兵制を禁じて志願制とする。
●条約締結当時の現役士官を45歳まで、事後に採用予定の士官を25年間、下士官・兵を12年間、継続勤務させる。事故、傷病等による事情を除く若 年退役を認めない。士官の総数は、総兵力の5%(衛生・獣医部士官を加えると4800人)以下とする。
●2ヶ軍団司令部、7ヶ歩兵師団及び3ヶ騎兵師団とし、軍司令部の常設を認めない。
●参謀本部、陸軍大学及び幼年学校を廃止する。

 兵の全員志願制と士官・下士官の長期勤務制は、人的戦力の培養と有事の急速膨張を抑える重要な手筋であった。
プロイセン以来の平時からの徴兵制及び有力な予備役こそ、長期間、ドイツ軍の人的戦力を支えた要因という英国軍部の主張が条約に反映された。
なお、連合国側は、兵力の上限を10万人に抑えて受け皿の部隊数も少なくし、全将兵を志願制下の長期勤務制にすれば、おのずと人事の停滞と老齢化を招くと目算したのである。

 現代各国軍では、若い下士官兵を部隊に継続的に充当して精強化を維持し、その中の選ばれた少数の特技者と幹部の要員を永くとどめ、その他大勢を早目に除隊させて後進に道を譲る制度を採する。
その結果、部隊は、適時、新たな下士官兵を迎えて若さが漲り、社会には、若年除隊者による予備戦力が蓄積される。

 ベルサイユ体制下の士官の一律25年間の継続勤務制も軍隊の活力を殺ぎ、精強化を阻む狙いがあった。
現代各国軍では、20代前半で少尉任官後、その主力は、30代までに少佐以下で早目に退役し、一部が中佐以上になり、軍にとどめる一方、新手の士官を継続的に補充する。
このようにすれば、部隊は、精気溢れる若い士官が底辺を成すピラミッド型の階級構成が可能になる。
これに対し、全士官が長期間、現役にとどまれば、進級は頭打ちになり、士気の低下と勤務態度のマンネリ化を招き易い。
部隊の枠組みと補職配置の制約上、全員を一律に上級階級に上げる訳には行かず、士官の主力は高齢化しても、やむなく低い地位の職務と階級に甘んずる事になるからである。

 特に高齢の尉官が多い戦闘部隊は、溌剌さを失い易い。なお、士官の若年退役制度も下士官兵の場合と同様に、社会全体に有事に応える予備戦力を強化する事ができる。
 プロイセン以来の伝統を誇り、優れた戦術と部隊運用により連合軍を苦しめた参謀本部及び陸軍大学の消滅、それに多くの有能な軍人を育てた幼年学校の廃止も、強国、ドイツ弱体化の布石であった。

 一方、国内では、天文学的数字に届く賠償金の取立てにより経済が逼迫して、国民生活は困窮を極め、各地で軍隊の反乱と民衆の暴動が頻発した。
思うに、当時のドイツの険悪な社会情勢は、第2次大戦後の日本国内の様相を遥かに上回る。

3 したがって、誇り高き民族は復讐心を沸き起し、ドイツの再起を促進させるゼ-クトの軍備政策を支えたのである。
更には、ベルサイユ体制の反動が、ワイマ-ル政権後の超国家主義、ナチスの誕生と新たな戦争の原因になった事は疑う余地がない。

ベルサイユ体制下の国軍と将来拡張構想

ゼ-クトは、1919年6月29日のベルサイユ条約締結後から参謀本部の解散に至るまでの僅か1週間、ドイツ帝国軍最後の参謀総長を務めた。
その後、ワイマール国軍の事実上の参謀総長を6ヶ月、次いで1926年までの7年間、陸軍総司令官の役割を果している。
すなわち、国防省の一機構、Truppenamt(Troop Office,部隊局ないし軍務局)が事実上の参謀本部、同じく、Chef der Heersleitung(Chief of Army Command,陸軍指揮総局長)が事実上の陸軍総司令官であった。

 ゼ-クトは、従来からの7ヶ軍団管区を師管区に変えて各1ヶ師団を置き、師団長に野戦部隊の指揮官及び編成・動員・警備等を担当する師管区司令官を兼務させた。
当時の師管区は、管区(Wehrkreis,Military District)と呼ばれていた。
条約で認める2ヶ軍団司令部として、東方向きの第1作戦集団司令部(ベルリン)及び西方向きの第2作戦集団司令部(カッセル)を設けた。

将来構想である2ヶ作戦集団司令部の野戦軍司令部への昇格、7ヶ師管区の旧軍団管区への復帰、7ヶ軍団の新設、7ヶ師団を21ヶ師団、総兵力10万人を30万人以上への増強計画は、1930年代初頭にナチス政権が、条約の制限を破棄するに及んで実現した。
これに至るまで、軍部は、将来の部隊規模に応ずる士官、下士官要員の育成に努めたのである。

ベルサイユ条約の盲点を衝く下士官の充実と活用

中上級指揮官もさる事ながら、兵と苦楽を共にし、戦場では率先陣頭に立って戦う優秀な小隊長、分隊長等の下級指揮官も重要である。
しかも、下級指揮官は、中上級指揮官よりも遥かに多くの頭数及び相応の教育訓練を必要とする。

  ゼ-クトは、将来の21ヶ師団分の下級指揮官を育てるため、下士官兵9万6千人のうちの約6万人を下士官にして、そのうちの曹長、軍曹(自衛隊の1曹、2曹)に小隊長教育を施し、戦時の初級士官要員に指定した。
要するに、士官の上限を4000人と規制する反面、下士官の人数を制限しない条約の盲点を衝いたのである。
更に、有為な初級下士官を育てるため、中等学校卒業生の優秀者を採って、各連隊で下士官教育を施し、各階級毎の昇任は先任順序でなく、競争試験方式を採用した。優秀な素質の兵は、17歳で志願入隊後、3年目に上等兵(gefreiter 、旧日本陸軍の兵長、自衛隊の士長又は3曹)、4年目に伍長、6年目以降、軍曹以上に昇任する事ができた。

 ドイツでは、4年生制小学校卒業時に、子供達を5~6年制の中等学校(中学、実業、商業)を経て3~4年制の専門学校に向う組と8~9年制の高等学校(ギムナジウム)を経て大学に行く組に振り分ける。
高等学校卒業者は、アビト-ア(大学進学資格)を取って、初めて高等教育(ワイマール国軍では士官候補生課程)の受講が可能になる。
 
4 高等学校を卒業し、アビト-アを取得した士官に比し、中等学校から来る下士官兵は教育水準が低い。
このため、軍当局は、将来戦に適応する下士官兵の学力の向上を目指し、1919年に軍隊専用の高等教育課程を開設し、適任の士官に教育を担当させた。

 洋の東西を問わず、良質の青少年を軍隊に誘う決め手の一つは、処遇にある。
したがって、ゼ-クトの軍備政策では、下士官兵に対し、階級、年齢が同程度のフランス軍の下士官兵の6倍に当る給与を支給し、上等兵にも、定員2人の準個室を与えた。
既に触れたとおり、多くの国民が生活苦に喘ぐ地獄さながらの国情にも関わらず、将来の国家の命運を託す軍隊の重要性を認識する政府当局は、国軍の下士官兵を厚遇した。

士官候補生の採用と教育

ベルサイユ条約は、幼年学校の廃止を命じたが、兵科学校の存続は認めていた。
このため、ゼ-クトは、歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輸送、衛生、獣医各学校及び各連隊に士官候補生教育を担当させた。
国軍では、旧時代よりも質の高い士官の育成を重視して、士官候補生の大部分を高等学校(ギムナジウム)を卒業し、アビト-ア(大学進学資格)を有する18ないし19歳の志願者から競争試験により選抜した。

更に近代戦下の軍隊に相応しい士官を育成するため、航空工学、機械工学及び化学の各アビト-ア取得者が優先採用された。
一方、優秀な上等兵は、普通学を含む初級指揮官課程終了後、準アビト-ア試験に合格すれば、士官候補生の受験資格を得る事ができた。
 入隊から少尉任官までの期間は、アビト-ア取得者が4年に対し、準アビト-ア取得者は6年であった。
なお、士官の総数が4000人に抑えられているので、1920年代における士官候補生の年間採用数は120人から250人までに過ぎず、そのうち、中等学校だけを卒業した下士官出身者は僅か10人前後であった。

 すなわち、ゼ-クトが目指す少数精鋭軍の育成政策は、将来の国軍の枢要な地位を占める若年士官に対し、高い教養水準と進展性を要求したからである。
全兵科(職種)の士官候補生は、指定された連隊に入隊後、先ず歩兵学校で1年間(衛生・獣医部は半年)、共通課目を学んでから、各人の所属兵科の学校で1年間、兵科専門教育を受けた。
1925年3月当時、アビト-ア取得後、直ぐに試験に合格して士官候補生に任命された一旧軍人の経歴によれば、所属連隊で1年半、次いで兵科学校で2年の教育を受け、その後、所属連隊で半年間、隊付実習を経て少尉に任官した。

 以下は、本人の入隊から任官に至るまでの4年間の足取りの大要である。
先ず連隊に入隊した士官候補生達は、一般中隊に2人ずつ所属になり、6ヶ月間、新隊員教育、初級下士官の指揮法及び基本的な軍事知識の教育を受けた。ちなみに、士官候補生を連隊に入隊させて教育する制度は、プロイセン以来の伝統である。

連隊では、毎日、午前中は中隊付士官が訓練及び隊務実習、午後は連隊付士官が戦術、兵器、軍事制度等の教育を担当した。
その後も連隊に1年間とどまり、上等兵、伍長、軍曹へと昇任して、隊務、訓練、機動演習等を体験しながら下士官の識能を培った。

5 連隊から歩兵学校に入校後、1年目には、歩兵以外の各兵科の出身者とともに大隊レベルの戦術、車両・通信・航空機技術、地図判読、偽装、乗馬、外国語、普通学、体育等を学んだ。
入校から半年後に、学校当局が候補生の士官の適性を見るための厳格な中間試験があり、これに落第すると、下士官として所属連隊に戻り、その大部分が除隊を余儀なくされた。1927年には、士官候補生200人のうち57人が落第している。

 2年目になると、歩兵科の士官候補生は歩兵学校、それ以外の兵科の候補生は各所属兵科の学校で、戦術主体の専門教育を受け、更には、当時の先端技術兵器、オートバイの操縦訓練を受け、免許証を取得した。
兵科学校2年目の課程終了後、6週間にわたる口頭試問など多彩な卒業試験が行われ、少数の士官不適格者が振り落とされた。
これに対し、合格した士官候補生は、所属連隊に戻って、半年間、小隊長の職務を実習後、晴れて少尉に任官する事ができた。

参謀要員の厳選と教育

1807年におけるシャルンホルストによる軍制改革により創設された参謀育成機関、陸軍大学は、ドイツの誇りであり、その制度は、世界各国に影響を及ぼした。ちなみに、明治陸軍も、プロイセンの制度を参考にして、1882年(明治15)に陸軍大学校を開校し、第2次大戦までに多くの有為な高級指揮官・参謀を育成している。

  ゼ-クトは、廃止された陸軍大学の代りとして、各師管区教習所及びベルリン大学(国防省教習所)において参謀教育を行う秘密の制度を創意案出した。
このため、既に敗戦の翌年の1919年から毎年1回、7個の各師管区教習所が当該管区内の25歳から30歳までの士官全員に参謀教育受講者の選抜試験を強制受験させた。
この制度は、参謀要員の選抜と同時に、若年士官全員の学習意欲と識能の向上及び低能力者排除の役割も果しており、2回続けて所定の得点に達しない場合には、士官を罷免された。
一方、国防省は、厳しい選抜試験に備える予習として半年間の通信教育制度も開講した。

 数日間に及ぶ試験の課目は、応用戦術作業、軍事原則、軍事技術、地図判読、兵器装備、各兵科の原則、外国語軍事資料の翻訳及びアビト-ア資格レベルの普通学(歴史、社会、経済、地理、数学、物理、化学、体育、語学)から成る。
各師管区では、受験者の約1割程度の10人が合格し、同師管区の教習所で2年間、戦術、戦史、軍制、軍事技術等に関する教育を受けた。
戦術課目の1年目は連隊レベル、2年目は師団レベルの運用が主体であった。
師管区教習所を卒業する時点の学生の主力は、大尉に昇任していた。

 中央のベルリン大学は、7ヶ師管区教習所の卒業生70人から競争試験により精選した10ないし15人に対し、1年間、軍・軍団レベルの運用、軍制事項等の高度な教育を施して、真に優秀な参謀要員に育て上げた。
更に、ベルリン大学卒業後、国防省及び司令部における参謀実務教育も行われた。教育密度も極めて高く、各師管区教習所は、学生10人に教官3人、ベルリン大学は、学生10ないし15人に教官2人を配当した。

 ベルリン大学を卒業した参謀要員は、国防省など中央機関の要職に就いた。
しかしながら、師管区教習所だけの卒業者も貴重な存在となり、師団参謀、副連隊長に補職され、新設予定司令部の要員に指定された。
なお、師管区教習所入学試験の優秀者の一部は、一般大学の工学部等に進学し、卒業後、兵器装備部門の要職に配置されている。

 ワイマール政権時代の参謀教育制度が10年間に育成した約500人の参謀要員は、その後の国防軍の要求に応え、1935年になると、プロイセン以来の伝統を誇る陸軍大学が復活したのである。
一方、1920年代における英軍幕僚大学及び米陸軍指揮幕僚大学(推薦制)の各課程は、僅か1年であった。

6 ワイマ-ル政権時代の国軍は、参謀職以外の士官でも、中尉は大尉、少佐は中佐以上と有事に1ないし2階級上位の職務を執れるように高度の教育を受けた。その結果、時が経つに伴い、各部隊の所属将兵の約30パ-セントを新設予定部隊の指揮官・幕僚などの基幹要員に育て上げ、各人ごとの職務配置も指定したのである。

近代兵器の秘密開発:ソ連と提携

ゼークトは、ソ連国内で、近代兵器の開発、生産、実験及び要員の訓練を行った。
一方、革命後、日が浅いソ連は、赤軍の近代化及び工業の振興に役立つ技術の取得などにドイツを利用する戦略を思い付いた。
そこで、ベルリン当局は、1922年7月に協定を締結後、モスクワ近郊フイリに、ユンカ-ス航空機工場、その東南400kmのリベックに航空学校、ロストフにクルップ戦車工場と訓練施設、カザンに戦車学校及び各地に火器弾薬工場を建設し、兵器の開発、実験、製造及び要員の訓練に利用した。

 1922年から10年間に、リベック航空学校は戦闘機のパイロット120人、偵察員100人、合計220人のドイツ空軍要員を訓練した。
カザン戦車学校に派遣されたドイツ軍の教官は1人、学生は10人に過ぎなかったが、その工場は、後にドイツ軍機甲部隊の主力になる3型、4型両戦車の原型を作り出すという重要な役割を果している。かくして、1933年に、ヒトラ-が独ソ提携政策を打ち切るまでの10年間にわたり、ドイツの試作軍用機がソ連領空を飛行し、試作戦車がソ連の演習場を走り回っていたのである。
これに対し、ソ連は、ドイツの重要な技術を直接吸収する事ができた。
例えば、赤軍(当時のソ連軍の呼称)のTB3型爆撃機はユンカ-ス、122ミリ榴弾砲はクルップ、45ミリ対戦車砲はラインメタル、戦車用デイ-ゼルエンジンはダイムラ-ベンツから、重要な手掛りを得て開発された。いずれにせよ、ゼ-クトは、ソ連側に相当の代償を与えたが、国防軍建設のための兵器技術を実用化し、機甲部隊、空軍等の基幹要員を育てる目的を十二分に達成したのである。
国軍は、戦車の開発中に、その実用化を見込み、ソ連領内で機甲部隊の訓練を行っていた。
そこで、秘密保全上、仮装行列の出し物のように、戦車の姿の板を張った自動車を戦車の代用品にした。


仮装戦車による戦闘訓練(米陸軍兵器博物館資料)

世界の注目を浴びた電撃戦教義の開発

7 ゼ-クトの他界から3年後に始った第2次大戦初期のポ-ランド進撃、アルデンヌ突破及び北アフリカ・トブルク作戦において、ドイツ軍は、電撃戦(Blitzkreig) を実行して短期間に勝利を収め、各国の注目を浴びた。
電撃戦は、戦車、装甲車、自動車化歩兵及び砲兵から成る機甲部隊と空軍の総合戦闘力の発揮により、敵陣地を突破して縦深にわたり機動し、敵部隊の包囲殲滅及び各個撃破を狙う即戦即決の運動戦である。

 ちなみに、グ-デリアン及びロンメルは、ゼ-クトよりも20年若く、電撃戦を実行した将帥であった。
ゼ-クトの指導する国軍の中枢は、前大戦の戦訓を研究し、開戦当初、西方戦場において大きく迂回して、英仏軍の殲滅を狙った短期決戦が不成功に終って長期にわたる陣地戦に陥り、多大な犠牲を生じた原因は、火力に連携する機動力の不足にあったと判断した。
然るに奇襲により敵陣地を突破して縦深にわたり戦果を拡張し、短期間に敵部隊を撃破した戦例にも目を向けた。
特に参考に供された戦例としては、大戦末期の1917年9月1日にバルト海沿岸の西部ロシア領におけるリガ攻勢が挙げられる。

 ドイツ第8軍司令官、オスカ-・フオン・フ-チェル大将は、9月1日早朝、2年間にわたり停滞した戦線において、3ヶ師団をもって、東方のリガに向い、突如、攻撃前進を始めた。
やがて、第一線の各部隊は、ロシア第12軍の戦線を数ヶ所で突破し、陣内の拠点を迂回しながら前進を続けた。

  この間に砲兵は、煙弾及びガス弾で拠点を無力化し、予備隊は、これらの拠点を掃討しながら第一線部隊に続行した。
一方、不意を衝かれたロシア軍主力が、パニックに陥り算を乱して後退するに伴い、戦況が急速に進展し、ドイツ軍は僅か3日間でリガを占領する事ができた。

 当時、フ-チェル戦術と呼ばれたリガ正面の戦訓は、電撃戦教義の開発に多大な影響を及ぼしたが、その機動は専ら歩兵の徒歩移動と砲兵火力に頼っていた。
そこで、ゼ-クトは、当時の先端技術の粋であった戦車、自動車及び対地攻撃機を活用すれば、戦場機動力と縦深戦闘能力の飛躍的な強化が可能と見て、電撃戦教義の開発に努めたのである。

 1939年9月のポーランド進撃は、フ-チェル戦術の超拡大版に他ならない。
なお、第2次大戦後の冷戦時代におけるソ連軍の全縦深同時制圧の教義には、フ-チェル戦術及び電撃戦教義の考え方が反映されている。

 一方、フランス軍は、前大戦の戦訓(例えば、ベルダンの攻防)から、火力、障害及び防堅固な陣地の価値を重視して、独仏国境にマジノ線という要塞地帯を建設した。
更に戦車の場合、集中運用に徹したドイツ軍と異なり、歩兵の直協火器と見做し、第一線各部隊に分散配置する戦術を採っていた。
このような、戦訓の見方の違いが、両国の戦術・技術の開発に影響を与え、その適否が、1940年5月の西方戦場で実証された。ドイツ機甲部隊は、マジノ線正面を避け、その北翼の盲点、アルデンヌの森を突破後、ベルギー正面に展開中の英仏軍の背後をダンケルク方向に機動して有利な態勢を形成し、短期間に勝利を収めたのである。これに対し、フランス軍は、ドイツ軍より数の多い戦車を分散配備したので強力な打撃戦力がなく、ドイツ軍機甲部隊の突進に対処できなかった。
思うに、今後ともに戦訓の見方が戦術・技術の開発に影響を及ぼし、将来戦の帰趨を左右する。


ポーランド進撃 アルデンヌ突破(戦争史百科辞典:デユプイから)

拙文を考えた当時の時代的背景

 各国とも経済上の制約があり、普段から常時即応可能な完璧な軍備を整えて置く訳には行かない。
したがって、将来、危険な事態に直面した場合、動員により急速膨張が可能な平時軍備を整備するに努めている。

 自衛隊が発足して間のない頃に陸上自衛隊の中央部は、有事に対処可能な防衛力を整備するため、大正時代の山梨・宇垣軍縮、戦間期(一次、二次両大戦間)の欧米各国の軍備を研究した。
いみじくも、1957年に定めた国防の基本方針は、民生の安定と愛国心の高揚及び国力国情に応じた効率的な防衛力の斬新的な整備を強調している。  

8 筆者は、幹部学校のCGS学生当時、旧軍出身の陸幕防衛担当幕僚、幹部学校教育部長及び教官各位から、ゼ-クトの軍備政策を学び、大いに感ずるところがあった。
1970年代に筆者が学校教官・研究員を務めた頃に、政官界で防衛費の削減ムードが横溢するに及んで、中央部では、有事に対処可能な平時防衛力の在り方が論議されていた。

 このため、筆者は、ゼ-クトの軍備政策を参考にして、平時防衛力の在り方を説く拙文を学校記事に載せるように提案した。
ところが、「防衛事務次官が生み出した基盤的防衛力構想の批判を避けよ」という上層部の意向により、掲載を見合わせた。
 しかしながら、折角の作業成果が、将来、役立つと思い、1984年7月に、その要約版を、友人が発行する、ミニコミ誌にとどめて置いた。
本拙文は、旧作業の趣旨を反映し、新たな西側資料を加味して記述されたものである。

 潜在脅威が増大する情勢とは裏腹に、積年にわたり防衛費が削られて、離島などの警備上、重要な陸上戦力も縮小の危機に直面する国情は、有事に役立つ平時防衛力整備の在り方を見直すべき時期を迎えている。人員の削減を迫られる今思うに、良質隊員の確保及び育成こそ、ゼ-クトから学ぶべき最も重要な教訓事項である。

主要参考資料

・J S.Corum,THE ROOT OF BLITZKRIEG:Hans von Seeckt and German Military Reform,
 Kansas,KS:KSU Press,1992
・R M.Citino,The PATH TO BLITZKRIEG:Doctrine and Trainingin the German Army,
 1920-39,Mechanicsburg,PA:Stackpole Books,1999,
・J W.Wheeler-Bennett,THE NEMESIS OF POWER:The German Army in Politics,1918-1945 London:Palgrave Macmillan,2005
・R.Sadoff, “Hans von Seeckt.”Military Review Dec 1987,Kansas,KA:USACGSC
・陸上自衛隊幹部学校在籍当時の学習記録(旧陸軍資料)