安全保障こそ国の根幹 ―菅総理の忘れもの―

森 清勇

昭和37年防衛大学校卒業(6期)、京都大学大学院修士課程修了
元陸将補 平成6年退官

国民が民主党政権になってから感じていることは、一貫した政策が保たれないことである。「トラスト・ミー」と大見得を切りながら混乱だけを残して8ヶ月で内閣を放棄した鳩山前総理の責任が最も重い。
当人はいまだに無責任発言を繰り返しており、マックス・ヴェーバーがいう職業政治家に最低限必要とされる「情熱」「責任感」「洞察力」のどれも持ち合せていないと言っても過言ではなかろう。
その後の菅総理も半年間の政権運営を「仮免許運転」と赤面することなく言うに至っては、国家・国民を忘れた無責任さだけが感得される。

「国家」が大本

現在の政権政党は長い間野党だったとはいえ、何時なんどきでも国民の要望に応じて国政を担う強い意識を持っていなかったといわれても仕方あるまい。その上に、国旗を否定し、反政府活動を行った議員をこともあろうに、反政府活動などを取り締まる国家公安委員長に任命するに至っては茶番劇もいいところで、本来ならば仮免許さえ躊躇される。

要するに、民主党は形而上下において「日本」という国家を台無しにしかねない、巷で言われる”お人よし”の”烏合政治屋集団”でしかなかったことを遺憾なく暴露している。

菅総理の所信表明演説で印象に残っている言葉がある。強い経済、強い財政、強い社会保障という3強政策である。閉塞感溢れる日本に活力を与えるという観点からの施策であろうが、これだけでは前政権の失敗に学ぶところがない。それは何か。
日米同盟を基底とする安全保障政策の欠如である。

それを見透かしたかのように、中国漁船の海保巡視船への衝突事案が発生した。眼中にもなかった事案の発生にあわてた政権は、単なる事故に見せかける隠蔽工作ばかりを行ってきた。これでは「密約」までも明かして、国民に隠し立てしない民主政治を看板に掲げてきた政党としては羊頭狗肉も甚だしい。

友愛精神があれば自国の安全が保障されるかのように錯覚してきた政党の現実世界に対する認識の甘さが明確になったわけである。戦後の弊として、国民とは何か、国家とは何かが議論された上での国民国家よりも、「市民」社会の方が居心地が良いという認識に傾いてきた。民主党政権でその傾向は一段と拡大されたように思われる。

国旗・国歌を忘れ、国民もいない市民社会とは、究極のところ、自分が生まれたところであり、敬愛すべき対象とすべき「自分の国」を持たないわけで、「自国を守る」という発想自体が浮かぶ由もない。

EUを結成している欧州においてさえ、それぞれの国家が基本である。ギリシャの財政破綻に際しても、基本的には自助努力が厳しく求められている。世界国家が出現しない限り、今後も「国家」がすべての大本であり続ける。

安全保障は根幹

日本を近代国家へ脱皮させようと幕末維新をリードした首脳たちには、どんな国家を形づくるか大きな迷いがあった。
そこで十分に政治的安定が確保されていない危険も顧みず、米欧回覧の旅に出たのである。岩倉具視を団長とする46名の使節団は明治4年12月、横浜を出航し、米英独仏等12ヶ国を巡り、2年弱後に帰国した。

余りの文明の落差に落胆することもあったが、その都度気を取り直し、日本の国柄を考えながら取り組めば、そんなに難しいことではないとの所見を抱くに至る。
中でも特に小国の軍事に関して関心を持った。270余年間に亘って太平の夢を見てきただけに、「夫レ兵ハ凶器ナリ、戦ハ危事ナリ。
殺伐ヲ嗜(たしな)ミ、生命ヲ軽スルハ、野蛮ノ野蛮タル所ニテ、(中略)文明ノ君子深ク悪(にく)ム所ナリ。
然ルニ欧州ノ文運ハ如(かくの)此(ごと)クニ開進シ、(中略)文明国ノ兵ヲ講ズルハ外寇ヲ防禦スルニアリ」という風に、諸国を巡回しながら理解を深めていく。

また外交の要に迫られた日本は、国際法(当時は万国「公法」といった)に関してのビスマルク宰相とモルトケ参謀総長の話には多大の感銘を受けている。すなわち、国家は強くなければ国際社会で生き延びていけないという話であったからである。
二人の話の要点のみを抜粋してみる。

「所謂(いわゆ)ル公法ハ、列国ノ権利ヲ保全スル典(てん)常(じょう)トハイヘドモ、大国ノ利ヲ争フヤ、己ニ利アレバ、公法ヲ執(とら)ヘテ動カサズ、若シ不利ナレバ、翻(ひるがえ)スニ威ヲ以テス。小国ハ孜々(しし)トシテ辞令と公理トヲ省顧シ、敢テ越エズ。以テ自主ノ権ヲ保セント勉(つと)ムルモ、其(そ)ノ簸弄(はろう)凌侮(りょうぶ)ノ攻略ニアタレバ、殆ド自主スル能(あた)ハザルニ至ルコト、毎(つね)ニ之アリ」(ビスマルク)モルトケの議会演説は一段と直截的に響いたようで、長々と引用している。

「政府タルモノハ、惟(ただ)倹約ノミヲ主旨トシテ、国債ヲ減ジ、租税ヲ薄クスルコトノミヲ慮(おもんばか)ルベカラズ、(中略)法律、正義、自由ノ理ハ国内ヲ保護スルニ足レドモ、境外ヲ保護スルハ兵力ニアラザレバ不可ナリ。
万国公法モ、只国力ノ強弱ニ関ス。
局外中立シテ公法ノミ是遵守スルハ小国ノ事ナリ。大国ニ至テハ国力ヲ以テ其ノ権理ヲ達セザルベカラズ。兵備ノ費ヲ惜(おし)ミ、平和ノ事ニ充(あつ)ルハ誰カ之ヲ欲セザラン。一旦戦(たたかい)起レバ、多年倹勤セル貯蓄ハ倏忽(しゅつこつ)ノ間ニ蕩尽(とうじん)スルニアラズヤ」と言って憚らない。

責任を持つ政治

今の日本を取り巻く国際環境を冷静に観るとき、140年前にモルトケ等が抱いた現実が何の抵抗もなく受け入れられる。言葉を駆使する外交術は一見しなやかになったように見えるが、国際社会の基底はどこまでも弱肉強食で動いていることを示している。

菅総理は「責任感に立脚した外交・安全保障」を訴えてもいたが、最初の試練であった漁船衝突事案では、「責任感」どころか国民の目を欺いてまでの軟弱外交を展開し、相手の術中に嵌ってしまった。「時には自国のために代償を払う覚悟が出来るのか」と国民に問うてもいたが、自らが「何の覚悟」も持っていなかったことを暴露してしまった。

政治は言葉であり、言葉には信が置けなければ民主政治は成り立たない。また、「政治家」であるためには責任感を持って欲しい。
裏返せば、責任をもてない言動の政治家は日本にとっては不要であり、早急に退場してもらうことが求められている。

(平成22年12月22日記)